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【介護】内面化された価値観と向き合う
先日、stand.fmで「介護」の話しをすると色々な声が寄せられました。中でも忘れられないのが、親の介護が始まった時、家庭を持つ男きょうだいが、一人で生きている妹に親の介護を押し付け、その人は職を失い、体調を崩したという声でした。
実は、そんな女性がわたしの周りだけでも何人もいます。
どうして一人で頑張って生きている女性が、なにもかも背負わされなくてはならないのかと、震えます。
だから、わたしは脱ぎ捨てて欲しいなと思っています。
家庭の中で刷り込まれて、その家庭内で規範となった、ケアは女性の役割というメッセージを。
女性には、自分を責めることなく生きて欲しいと思うのです。
そして、自分の人生こそ大切にしてほしいと願うのです。
そう、わたしも何十年もかけて、内面化された家族内の規範や価値観を脱ぎ捨てています。
現在、わたしは母の介護を在宅で始めていますが、その中で、先日書いた、介護時に感じる「罪悪感」について、もう少し考えてみました。
わたしは、母と話す時間をもう少し確保しなくてはと思う時があります。それは、母の顔に少しだけ陰りが見える時です。
台風シーズンには、母の体は悲鳴をあげます。痛み止めは毎日飲んではいますが、体中が痛むのです。
それでも、母は泣き言は口にしません。
先日、夕食の際、母の血の気のない母の顔を見て、ケアマネジャーをしている友達の言葉を思い出しました。
「高齢者が厳しい顔をしている時は、痛みと戦っている時が多いの。だから、優しくしてあげてね」
と言っていたはずです。
近頃、母はそんな顔をしています。
分かってはいますが、同じ家の中にいても、声を掛けたり、体に触れることをしないまま過ごすことがあります。
忙しすぎるのです。
そんな時、ふと「家族と同居する高齢者の方が孤独を感じる」という、どこかで見たデーターが頭をよぎったりします。
どんなに気を使ったとて、母はわたしの家に身を寄せる身です。
母には最期までこの家で暮らしていたいという希望があります。
ですから、肉体的にも精神的にも、これ以上わたしに負担をかけたくないと感じているのでしょう。
それでも、久しぶりに母の背中をマッサージすると、体に触れるだけで分かるのです。
そう、週に一度来て下さる理学療法士さんとわたしとでは、きっと全く役割が違うのです。
わたしが母の部屋を訪ね、話しながら、痛む背中や足に手を置くだけで、母が心から安心するのが分かります。痛みと戦う孤独な姿勢が弱まり、体が緩むのです。
そして、翌朝、輝くほど明るくなった母の顔があるのです。
そんな時、チクリとするのです。
それは、母への愛というより、罪悪感です。
これは、マミーギルドのような感覚に似ています。
たった30分ほど母をマッサージしただけで、母が恐ろしくわたしに感謝するのです。
なかなか複雑です。
どうしてたったこれだけのことができないのかと、母をほったらかしにしていた罪悪感が発動するのです。
恐らく、この感覚は、わたしが育った家族内の規範のようなものが、わたしの中に内面化されているのでしょう。
ただ、わたしは自覚しています。
わたしに内面化されたこの罪悪感は、娘だから、妹だから、女だから、ケアをしなきゃいけない、という罪悪感ではありません。
そんなものは、もうとっくに脱ぎ捨てて、
わたしはとても身軽で自由です。
ケアに男も女もありません。
ケアに生まれた順番も関係ありません。
ケアは皆で助け合ってするのが良いのです。
それが無理なら、
ケアは出来る人が、できることをするのがいいと思うのです。
働いていてどうすることもできなくて、ほんの少ししか手伝えなくても、それは仕方のないことなのです。産んで、育ててくれた人なら、それはよくわかってくれるはずです。
女性だけが背負わなくていいと思っています。
では、わたしの感じる罪悪感とは、
娘として、いえ、人として、思うように動けなくなった年老いた母を孤独にさせてしまったことに対する罪悪感なのだと感じています。
※最後までお読みいただきありがとうございました。