苦しい場所
「意識」について考えることがありますか?先日、大人の哲学を語る会に参加させて頂き「意識」について語る機会をいただきました。
その時点では、まだぼんやりとしていたのですが、色々な視点からお話しを聞いたことで、徐々にわたしの長年抱えてきた「意識」問題が言葉にできそうな気がしてきました。
というわけで、わたしの経験と「意識」について、今の段階でわかったことについて書いてみたいと思います。
わたしは幼い頃から「素直で良い子だ」と言われて育ちました。これは誉め言葉ですが、それがどんな時に発せられていたかということが大切なのだと感じています。
わたしがそれを言われたのは、やりたいことを我慢した時、不本意ながらも誰かに大切な物を譲った時、そんな時が多かったような気がします。
そんな刷り込みが、わたしの体内で逆行しはじめたのが30代半ばでした。
30数年生きてきて、自分の感じていることと、自分の行動や生き方がズレていることにぼんやりと気づき、そして立っていられないほど苦しみ始めたのです。
そこで、恐らくわたしは初めて、自分と向き合ったのだと思うのです。
幸いにも、そこから数年で、わたしは見違えるほど元気になりました。
哲学者、井筒俊彦氏は、『意識と本質』の中で、
目の前にあるものに名が付くことで、それは誰から見ても「花」であり、その「花」は「花」を知る人の中にも共有される。だから、人は会話の中で「花」が語れると言います。そうした物に名が付くことを氏は「本質」と呼んでいます。
「素直で良い子だ」と言われ続けたわたしには、その良い子である「本質」が、自分自身に埋め込まれ、「素直で良い子」が取るべき行動や、発するべき言葉がわたし自身にも共有され、
そこから、わたしは「素直で良い子」そのものとなり、そこから逃げだせななり、わたし自身がその「本質」と化したのです。
氏はここでサルトルを引用します。
あらゆる言葉が消え失せ、事物の意義も、その使い方も、目印である線も消えたなら、人は混沌とした世界に放り込まれてしまうと。
それをサルトルは「嘔吐」と表します。
実は、わたしが30代で自家中毒のような症状を起こし、自己否定から、本来の自分へと向き合う、ちょうどその中間点が、サルトルの「嘔吐」だったように思えるのです。
それ以前のわたしは、大人になっても「素直で良い子」という「本質」そのものでした。わたしの行動には、すべてに規範があり、そこから抜け出せず、それがおかしいとすら思えなかったのです。
それは、繰り返し刷り込まれ強化され続けた「本質」でした。それが、周りの大人の希望であり、便利さでもあったはずです。
そこから、わたしは「素直で良い子」がどれほど誰かの役に立つ呪文だったかと気づき、それを脱ぎ捨てました。
そして、「空」と「無」の世界へと向かったのです。
わたしの「嘔吐」時代、世間ではたまたま般若心境ブームが起こっていました。偶然でしたが、わたしは意味も分からず、毎朝般若心境を唱え始めたのです。
苦しかったのです。
本物の混沌とした「嘔吐」時代でした。
井筒俊彦氏は、「深層心理」について書かれていますが、
それは恐らく、周りから見た自分、期待される自分、こうであらねばと自分を自分で罰する自分、という場から抜け出し、
さらにもう一歩、自分自身がどう見られたいかという場からも抜け出し、ただただ「空」である場なのではないでしょうか。
そこが恐らく、氏の思う「深層心理」なのではないでしょうか。
というわけで、この段階のわたしの「意識」の解釈は、「本質」を多く抱え込んでいればいるほど、人は苦しいということなのではないかと思うのです。
ですから、その共有されている「本質」を手放すことで、人は始めて、自分が本当にやりたいことや、嬉しいと思えることが見えてくるのではないでしょうか。
わたしの「空」のイメージは、誰にも遮られない、誰にも決めつけられない、誰にも裁かれない、自由で正直で良きもので、かつ温かい場です。
きっとその場に居られたなら、人には、あらゆるものから遮られることのない、輝くような強さが発せられるのではないでしょうか。
というわけで、まだまだ手探りですが、これからゆっくりと考えていけたらいいなと思っています。