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迷うvs猪突猛進。どちらが体力必要か『なぜ人はカルトに惹かれるのか』

おもしろくないわけがない。


ある種の人たちは、わりと言う。
「馬鹿になりたい」

なにか迷いなく信じられるものがあれば、自分のゆく道を決めてくれるなにかがあれば、絶対的ななにかがあれば、私はそれに従って生きるのに。
迷うのはつらい、自分で決めるのもいやだ、思考停止したほうが幸せだと。

その気持ちがわかるなら、きっとあなたもカルトにはまる。
カルトは、自分に明確な道を示してくれる。

 カルトは多くの場合、あなたが生きているのはこのためだ、という明確な答えを与える。あなたの人生はこういう意味があるのだ、あなたの今まで生きてきたのはこの教えに遇うためだったのだ。そして今後はここに向かって歩んだらいいのだ、と。こうした疑問に答えを与えることで、その疑問に向き合う苦しみや迷いを消し去ってくれる。「もう迷わなくていい」のだ。これを私は「真理への依存」とか「正しさへの依存」と名付けている。(p.107)

「正しさに依存」するとなにが素晴らしいって、自分の責任がなくなることだ。重要な選択も、指導者の教えに従えばいい。不都合な結果が起きたとしても、それは自分の霊的な成長に必要であるとか説明されるわけだからそれを信じていればいい。

人生の根源的な意味を求める宗教心は、教団から与えられる「正しさ」によって殺されてしまう。だから親鸞会にいる間はそこに迷いはなく、とても充実していたし、何よりどんな行動にも完全な意味が与えられていた。人生の無意味さに対する不安から解放されるのである。(p.109)

人生の意味を求めて、迷うのは苦しい。何が正しいのかわからないまま、揺れているのはつらい。だから、明確な答えを与えてくれるものにすがりたい。瓜生さん、おそろしいことをいう。

「迷って生きていく自由」を放棄することで、人間は実に心地よく楽に生きることができるのだ。(p.109)


これはべつに、反社会的なカルト教団に限った話ではない。多かれ少なかれ、私たちはいろんなものに「依存」している。この「依存」という言葉づかいに、私はギョッとした。

依存。それなしでは生きていけないということ。自分という主体があって、補助的に杖を使うのではなく、自分を載せてくれる駕籠がないとどこへも行けなくなってしまうということ。

主体性を放棄するのは楽だ、楽だとは思うけど。

この本の帯が効いている。
「脱会とは、迷いながら生きていく勇気を持つことである」

なにか正しいものがあると盲目的に信じるのではなくて、そんなものはないさと諦めるタフさが必要だよ、と、わたしもおもうけれど…ねえ… いやぁ他人事じゃないよ。私もサリンをまいていたかもしれないもの。

うめざわ
*カルトに入会する人の傾向はあるか?という問いに対しての、村上春樹批判がおもしろい。村上春樹は、その人たちは「よい物語」を見極める力がなかったからと言うのだが、著者の実感とは違うという。一定の傾向があるとすればただ一つ。人間の根源的な救済や教えを求めるということ。

*やー、すごくおもしろい本なんだけどなんも言えねえや。この瓜生さん、大学のとき一度講義受けた。大学で聞いてよかった話、5本の指に入るのだけど。

*詳しい内容はこちらのnoteで。


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