「死生観」
「死生観」
この問題は私にとっては既に日常の意識となっている。だが、多くの人々にとってはそうではないようである。
我々が「生きる・生存」ということにおいて最大の問いは「死」である。
生物としての生は自然界の摂理による生成死滅を繰り返している。これは自明の事すぎて考察するまでもない。
ただこの自然界の「生の為の生」という基点にのみ考察された世界観は必然的に無常観へ至り、これ以上の認識は不可能とされる。
この意識状態が体得された状態を空とか個的悟り等々、つまり孫悟空に代表される世界観である。今日この孫悟空と相対的世界観は全体的に親和している。
「死」の問題は哲学の最も基本命題でもある。
我々は個体として、この物質界・肉体があるからこそ自分・私が生きていると実感する。
ゆえに『私・肉体』が消滅すれば世界・自然界も知覚不能である。この単純明快で幼稚な考え方は誰でも受け入れやすい。この考え方は方向性をも消失させる。有能無能に関係なく、死ねば終わりである。我々は常に死に向かっていると。
フロイトの浅薄な心理分析が一般に理解しやすいのはこれゆえである。
似て非なる考え方もある。
「よく生きることは、よく死ぬ事である」
これは単純な物言いであるが解釈しだいでは相対的世界観と同じでもある。
簡単に言えば「寄らば大樹の陰」である。大樹が理想、国家、教義を問わず、そこには「私」の喪失がある。
個体的存在である「私」の問題は単に物質体・肉体に限定されるものではない。これも実証不可能のものは全て主観である、と一蹴される。
主観とは個々人の一視点にすぎない。思考による一考察の結果である対立概念のひとつが世界観となったら一切がいびつになる。
だが、この歪(いびつ)の世界観に殆んどの存在は麻痺し、慣れてしまっている。
死と生は自然界の摂理と同じく循環している。その循環を唯物論的視点で捉えれば単調な生にしか観えぬのも当然である。これでは「死」という恐怖の呪縛から解き放たれることはないであろう。
今日の世相、状況はこの恐怖というものに蓋をした、しようとする行為、逃避のあらゆる現象の上ですこぶる饒舌である。
今日、孔子の言葉「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」は宙を舞っている。
2005年01月16日