「理屈はどうとでもつく」
「理屈はどうとでもつく」
私は天性の相対的意識を具えて生れて来た。
故に徹底的な相対的意識を所有した個人主義者でもあった。
今日蔓延している「唯物論的世界観」の実体は私にとっては日常的意識であった。
人間が考え出したあらゆる「価値観」「世界観」等簡単に相対化可能である。
例えば、肉体即自我という虚無主義的観点からの言い分はこうである。
「一体、誰が人間は道徳的に生きねばならぬ、などという事を決めたのだ。どうせ一回きりの人生をどのように生きようが他人の知った事じゃない。俺は好きに生きる。人間は誰でもどうせ最後は死ぬ。生きている以上、所謂、生成死滅する。此の世は弱肉強食の原理で動いている。例外なく誰でも自分にとっての損得で生きているのだ。汗水垂らして働くなどという馬鹿げた事などする奴の気が知れぬ。強盗や恐喝で簡単に金を稼いで何が悪い。そりゃ、捕まれば刑務所行きだ。ふん、法律など恐れている臆病者はせっせと真面目に働きゃいいんだよ。俺はまっぴらごめんだよ。俺は自分の生きたいように生きる。宗教家や人格者どもは煩悩を滅却せよと、戯言を吐く。くだらぬ、ふん、馬鹿な事を、所詮人間も獣と同じだ。
人殺しすらも国家が戦争をやれば殺した人数が多い程英雄になる。縄張り争いを単に正当化しても、所詮は暴力団と何ら変わらぬ。個人から国家になればこのように義の為、国家の為等と正当化されるのだ。俺のやることなんぞ可愛いものだ。
自分の快楽を求めて何が悪い。何だかんだ言っても所詮は綺麗ごと、偽善にすぎぬ。俺は俺の生き方をするだけだ。みんなもこの俺の生き方をうらやみ、妬んでいるだろう。
皆が俺のような生き方が出来ないのは人間が勝手に作り上げた法律とやらに縛られているからだ。もっと好き勝手に自由に生きれば良いのだ。これこそが自由ってもんだ。それが出来ないのは他人の眼ばかり気にしているからだ。ふん、臆病者どもめ。」
と、このような物言いは幾らでも出来る。
あらゆる価値観、世界観等、全て相対化する事は可能なのである。
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