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「大いなる無邪気さ」

「大いなる無邪気さ」


私が文中に用いる「無邪気」は大いなる無邪気さと言った方がいい。

言葉というものは誠に厄介なもので、用いる人物によって解釈、変化する。
ゆえに「大いなる」という物言いになる。
下記の文章は拙著「小林秀雄論」の部分抜粋であるが、無邪気さというものに触れているので此処にも転載する。

またニーチェが『ツァラトゥストラ』で言った三様の変化の
幼子の如き無邪気さとも同義である。
この意識状態を生々しい現実で保持、維持することが如何に困難であるかは語るまでもない。

「千里眼でなければならぬ、千里眼にならなければならぬ、と僕は言うのだ。詩人は、あらゆる感覚の、長い、限りない、合理的な乱用によって、千里眼になる。恋愛や苦悩や狂気の一切の形式、言うに言われぬ苦しみの中で、彼は、凡ての信仰を、人間業を超えた力を必要とし、又、それ故に誰にも増して偉大な病者、罪人、呪われた人、或いは又最上の賢者となる。彼は未知のものに達するからである。彼は、既に豊穣な自分の魂を、誰よりもよく耕した。彼は未知のものに達する。そして狂って、遂には自分の見るものを理解する事が出来なくなろうとも、彼はまさしく見たものは見たのである。彼が、数多の前代未聞の物事に跳ね飛ばされて、くたばろうとも、他の恐ろしい労働者達が、代りにやって来るだろう。彼らは、前者が斃れた処から又仕事を始めるだろう」(ランボオ、千里眼の手紙)。

「ランボオⅢ」の中で小林秀雄ははっきり明言する「――彼は河原に身を横たえ、飲もうとしたが飲む術がなかった。彼はランボオであるか。どうして、そんな妙な男ではない。それは僕等だ、僕等皆なのぎりぎりの姿だ。(後略)」と。

小林秀雄が言う「僕等皆のぎりぎりの姿だ」という意識状態を前提として不可欠なのが無邪気さなのである。
無邪気さとは「心情の相対化」が感覚レベルまで血肉化されている状態である。

この無邪気さを獲得し得ぬ限りは個人の魂は引き裂かれるか、心身のバランスを崩すであろう。

今日において即興精神、創造精神が要求されている。

小林秀雄が神田を散策していてA・ランボオに出会ったのは事件であったといった意味での「事件」が魂の裡に体験され、血肉可されなければ今日の「相対的世界観・虚無的世界観」を打破するのは限りなく不可能に近い。
この意識状態を前提として「芸術家は最初に虚無を所有せねばならぬ」と、小林秀雄が血反吐を吐くが如く、吐いた意味である。


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