私が体験した魂的内的体験
二十六歳の時に私の精神、全意識を震撼させ一変させるような事件が生じた。
私は食を断ち、七日も経てば自分が無感情になるのは知っていた。ただ、包丁で玉ねぎなどを刻んでいると、不意に自分の手首を落としたくなるという衝動が何度も湧いた。
私は自身のバランスを取る為に全ての行為に反対の概念を念仏のように繰り返していた。私が食を断っている時にも客には様々な反応が生じた。私はそれらを全て無視した。
私が体験した「魂的内的体験」を他者に語っても変人、狂人扱いされるであろうことは自明であった。私は自分が孫悟空の如き存在であった事を思い知った。私のように天性の相対的意識が魂の質である人物を覚醒させるには過酷な環境が必要であったのだ。
私は兄や弟が精神のバランスを失う時の意識状態を嫌というほど実感、体感した。通常の人間であれば間違いなく自分自身を制御する事や社会の中で保持するのは頗る難しい。
私は眼前の人物の魂が一気に私の魂に流れ込む。それは名状し難い苦痛を伴った。所謂、心眼と言えば響きはいいが、他者の魂が自分の魂と融合するという事は想像を絶する嵐の中にいるようなものである。さらには、私の肉体は食を拒否した。私は少量のキャベツ、野菜等、薄めた牛乳を無理やり胃に流し込んだ。だが、胃が受け付けず、吐き気でもどす、という行為を繰り返した。私は私自身の変容した自我意識と肉体との戦いの渦中にあった。ほんの数歩歩くだけでも凄まじい意志力を必要とした。私は自分の肉体を鍛え、頑強にしていた事の意味も悟った。
私は、私の至った意識状態で悉く斃れた人物達の魂をまざまざと魂の裡で観ていたからである。私は道半ばで斃れた歴史上の人物達の魂を認識の殉教者と呼んだ。ただ、何故この俺がバトンを引き受けなければならぬのかとも思った。しかし、「一度目覚めた者は二度と眠る事は許されぬ」という言葉が私の魂の裡に鳴り響いていた。
私は全世界を敵にまわしても戦わねばならぬと覚悟した。
私は所謂神秘体験と称されている体験を日々味わっていた。ただ、その内容を言葉に変換するのは難しい。私が味わっている体験内容を他者が聞けば頭がおかしい者の空想、妄想の類として一笑に付されるであろう事は明白であった。近代以降の文学や哲学に於いてその悲劇劇は明瞭に語られている。私の対話する相手は歴史上の人物達、死者達であった。
私の異常な意識状態の状況で通常の接客商売を続けるのは三年が限度であった。
私は接客の仕事と並行して自分に必要な書物を異様な集中をもって貪欲に吸収した。道を歩く時にも読みながら歩く。私にとって自分自身のバランス保持にも必要であった。
店に来る若い情連には相手に理解できるような言葉を選び対話していたが、用いる言葉、概念が其々違う。相手に応じて言葉の為の言葉の説明を要した。私の身体や脳味噌がギシギシと軋んでいた。眩暈と吐き気、頭痛、身体のあらゆる痛みが常に伴った。それでも私は私の為すべき使命がマグマのように内部に滾っていた。それまでの友人は私を恐れて去るか、私の気迫と異様な雰囲気に呪縛されて去る事も出来ず、怯えつつも会いに来た。
私は日常の中で不可能ともいえる人類の理想を相手に応じて恫喝するように語っていた。
無論、見境なく相手していた訳ではない。衣食住に埋没している人物達には沈黙を守っていた。相手の能力や資質、意欲に準じて接していた。
私は自分自身の心身を保つためには言葉が不可欠であると痛感した。
私は私の様な体験をしている人物を歴史上に探した。私の体験した状態を理解できるものは身近には存在しなかった。
私は最も不快というのも不快な人間界に自ら踏み込む羽目になったのである。
私は言葉の世界に踏み込むのに若干の不安はあったが払拭し、強固な覚悟で未知の世界に踏み込んだ。まず、骨格として哲学、肉付けとして心理学、さらに人間関係の処し方は文学と。無論、店の仕事をしながらである。私は近所の書店を片っ端見て回った。私の異常な直感力と高速で活動する思考は書物の背表紙に書かれているタイトルと著作の頭と最後の数ページを読めば描かれている内容はすぐに分かった。
私は哲学者ニーチェの「ツァラトゥストラ」が自分の極度に緊張した日々の意識状態のバランスを保持するのに適していた。ニーチェの翻訳された著作は殆ど読破した。哲学者はプラトンやアリストテレス、ヘーゲル等、山頂に居る存在を主に読む。他はその亜流に過ぎない。
近代のニーチェやアルチュウル・ランボオ以降に影響を受けた一般に実存主義と称される哲学、文学は相対的世界観に呪縛され、無方向が方向、或いは無意味が意味という実体無き世界観を起点とした考察でしかなかった。
絵画ではキュビスムから抽象表現へという運動が連動していた。相対的意識とは一切の事物を公正に、偏見なく観る、という一視点にすぎない。ただ、単なる動物ではない人間が目的や方向を喪失したらどうなるかは言わずもがなである。
私が文学作品に触れたのは十五歳の時で、兄が所有していた文庫本であった。読んだのは二、三冊程度である。ゾラの小説を読んだときは背筋に寒気が走った。人物も含め、光景、情景描写がただの眼、それも単なる肉眼のみで捉えられていた。ゾラの世界観は自然科学的観点から書かれていた。私はセザンヌが旧友のゾラと袂を分かった意味を理解した。セザンヌはリンゴも人物も同じだ、と言っていた。さらに構成を重んじ古典的なバランスと深みを求めた。しかし、セザンヌの胸中には深い信仰心があった。彼に影響されたピカソはその相対的意識の徹底的な表現に衝撃を受けたのである。既にピカソはニーチェやアルチュウル・ランボオを読み、知っていた。私が私であって私ではない、しかし私は私として存在する。この足場無き空間に於いてわが身を世界と如何に処すべきか?と懊悩していたからである。
その後の抽象表現者達の悲惨、悲劇とも謂える内的苦悩は相対的、虚無的世界観を打破し得なかったという点にある。多くの抽象表現者たちは東洋的無常観に支えを求めた。相対的世界観の浸食は速度を増した。一切を等価値と看做す思想の影響は哲学や心理学、文学にも及んだ。
私が私であって私ではない、それでも私は個体として確かに存在する。この意識状態で生存が無意味であるという地点に留まり、一歩も先に行けぬとすれば通常の個人は耐え得るものではない。観念的、心情的であれ、この足場無き空間に魂は耐えきれずに自滅、破滅、難破する。
私は日本にも私と似た、或いは同じような体験をした人物はいるのかと探した。私が見出したのは小林秀雄であった。