「ユング自伝」と精神変容によるサルコペニア克服

私は本を読むのが好きだが、決まってノン・フィクション。これは別段、小説などのフィクションを低く見てるとかそういうことではないのだが、「いちばん読みたいフィクション」の順番が「すべてのノン・フィクションのあと」なので、リストを上から読んでいくと結局ノン・フィクションばかりを読むことになるワケである。で、リストの上位には常に「新しいノン・フィクション」が随時追加されてゆくので、たぶん今回の人生で、私がフィクションを読むことはついぞなくなるんではないか、という感じ。

…閑話休題。だがたぶん本題に行き着くまで、長い💦。
私が読むジャンルはほとんどがサイエンスもののノン・フィクションだが、しかし「一番好きなジャンルは何か?」と問われれば「自伝・伝記」と答える。私に言わせれば「ノン・フィクション中のノン・フィクション」というのは自伝だ。そして伝記(他伝)がこれに次ぐ。
別に「偉人の生涯を知る」とか、そんな大げさなものではない。なんなら「全然無名のドコのダレだか知らない人物」のものでもいい。理屈抜きに、そういう書物(でなくてもよくて、日記でもいい)が好きなだけ。ま、これはまだ一般的な領域に入ると思うので「好事家」とは言わないだろう。

といっても、ビジネス書やくだらん新刊本なんかだと30分くらいで一冊を粗読する私でも、自伝や日記はトコトン丁寧に読むので時間がかかる。
現在読んでいるものの「ひとつ前」にはルドルフ・シュタイナーの上下2巻を読んだが、半年くらいかかった。作曲家ヴェルディの伝記も、やはり数ヶ月の時間を要した。「一文字たりともナイガシロにはしないように読もう!」と心がけ、すべての意味を的確に理解しようと読むと、ヤッパリそのくらいかかってしまうのである。ま、あとは海外の人物の場合には翻訳の問題もある。マイナーな著作の場合、酷い翻訳はデフォルトで覚悟せねばならない。

…でいよいよ本題だが、現在読んでいるのはスイスの心理学者、カール・グスタフ・ユングの2巻本。訳は「かの」河合隼雄ら。

ヤッフェ編によるユング自伝上下②巻、1963年刊行. 訳は河合隼雄ら.
ユング最晩年の執筆で、本人の遺志により死後に出版された.
…ちなみに1963年は、私の生年でもある

シュタイナーもカナリの難物だったが、こちらも異例。ユングというと「フロイトとセット」というイメージだったが(今となってはこのイメージはカナリ乱暴で、ユングに大変失礼だと悟った)、フロイトとはまったく別の意味で「怪物」である。世の中「読者を選ぶ」本はたくさんあるが、これも実はその一つだろう。なぜならユングの語る世界は、ASDとかアスペルガーとかの発達障害系の人でないと「真には理解できない世界だろうな」という予感というか香りがぷんぷん。例えば訳者の河合隼雄氏なんかは、日本ではユングの第一人者ということになってはいるが(それは学界上での話であって)、人間(の種類)としてはあまりにユングと異質なために、十全な訳出ができてない、と私の目には映る(もちろん私は原語を読んだことはないのだが、直感としてそう感じる)。ま、それくらい異様な本なのだが、アスペルガーの私には、実に面白い本である。

…だがこの本を語るのが本題ではない。
というわけでやっと今日の本題。

このユング自伝の中に、精神科の臨床医として働いていたときのユングの体験談が載っている。これが実に示唆に富んでいて、わずか数行のくだりだったが、あまりにも衝撃的だったので、この記事のテーマにすることにした。引用したいが、ソモソモどのページだったかもう探し出せないので、断念💦。

あるとき臨床医ユングは、解離性同一症の50代くらいの女性のカウンセリングに当たることになった。かつては「多重人格障害」と呼ばれていたもので、「ジキルとハイド」といえばわかりやすいだろう。
そのムカシは、別にこの患者でなくても「オマエの言動は多重人格者みたいに一貫性がないな」とかいう比喩あるいは揶揄に使われるくらいは一般的な語そして概念だったが、その実はそんなに生やさしい代物ではない。実は私の父親がまさにこの解離性同一症+重度の双極性障害(こちらはかつて躁鬱病、と呼ばれていた)だったのだが、実際に接してみるとこの「解離性同一症患者」の凄まじさというものが「筆舌に尽くしがたい」ということがよく分かる。まったく人間が入れ替わって別人になる、としかまさに表現できない恐ろしさなのだ。知識・記憶・世界観・人生観みたいなものが「そっくりそのまま入れ替わる」としか言い様がない。要するに、「完全な別人」なのだ。

しかしそんな私でさえ、ここから先のユングの叙述には驚いた。
…といってもユングの記述はそっけない。というのは、その事実自体はこの本で語りたいことではなかったからだ。

それは何かというと、「この女性患者は、ふだんの人格の時には老眼鏡をかけているのだが、別人格が現れると、この老眼が治っているのである」という、私の文章でさえわずか2行。ユングの記述も、そんなもんだったはず(くどいが本来はそのまま引用すべきなのだが、なんせ当該の箇所が見つからない💦)。

…いや、これってオドロキでない?
私はホントに驚いた。
いや、「知識・記憶・世界観・人生観みたいなものがそのまま入れ替わる」というところまではなんとか受け容れられたとして、いやいや「老眼が治る」って、どういうこと??てな感じだった。
ユング的にはそれほど問題視する現象ではなかったのだろう。だが私はこれが気になって気になって仕方がなくなってしまった。

老眼、というと私たちが知るのは「加齢により眼球内の水晶体の厚みを制御する筋肉が衰えてピントを合わせきれなくなる」現象・症状ということだろう。要するに、フレイル、なかんずくサルコペニアだ。
…で、サルコペニアである以上、それは「当人の(筋肉という)ハードウェア機能であり、精神性などのソフトウェアの問題ではない」と考えるのが普通ではないだろうか?

しかしこの患者においては「多重人格が(たとえ何人いようと)共有する『身体』というハードウェアの性能までをも、変えてしまった」ということが分かるのである。これは(他の人は知らないが)私にはものすごいショックというか衝撃、だった。要するに「これまではサルコペニアすなわち加齢由来の現象なので、改善しようがない(し、アタリマエ過ぎて誰も『改善しよう』などとは思わない)」現象だと思っていたのが「実はそうではない」ということが分かったから、である。

そうなると次なる私の考えは、当然ながら「それじゃ私の老眼も、私のマインドが変わることによって、治る可能性があるってことじゃないか??」ということである。いや、まったくその通りではないか。そんなこと、考えたこともなかった。

ま私は年齢なりの老眼に悩まされているが、しかし「克服できる対象」だなんてマサカ考えたこともなかったので、老眼鏡買うなり常備するなりして「うまく付き合ってゆく」という方向性でしか考えたことがなかった。

しかし今やこれは「私の霊学/神秘学の研究対象」に加わったのだ。もちろん、現代の医学は「老眼は治療不可」というだろうし、可能だとしても「外科的な治療や施術」が必要だろうと思う。もちろん都市伝説的なノウハウはあるんだろうが、そのあたりも含めて、調査開始してみる。
ポイントは「多重人格者の内部で、異なる人格が出現(支配)したときに、『水晶体駆動を担う筋肉群を司る神経系の作動回路』が変わる」ということなんだろう(私の頭と語彙では、現時点ではこんな表現になってしまう)。そこには当然、電気的な変化とケミカルな変化が支配的になるはずだ。それが「別人格の出現」によって電気的・化学的な「作動アルゴリズムのセット」がそっくり入れ替わってしまう、ということなんじゃないか。

…それを例えば医学部生理学講座でプロジェクトを立ち上げて解明したとして、解明できたところで「じゃそれをどうやって我々が自発的に体内で再現できるか?」という回答にはならない。私は、それを体験してみたいのだ。

ヒントは「多重人格(者の血液、が私にも流れているはずなので、そのヘンリンは分かるはずだ!)の人格転換の際に、脳内で何が起きているのか?」を追求することにあるんだと思う。
これが医学部の研究室なら、すべてのメカニズムを解明してバリデートしないといけないので個人レベルではできないが、「自分を材料にしてイロイロ試行錯誤」してみればよいことだ。おそらく歴史上、こういう好奇心に抗えなかった人たちはたくさんいるんだと思う(そしてそれらの大半は、諦めるか、忘れ去るか、あるいは失敗して死ぬかみたいな感じなので、過去に履歴と記録を残せなかったんだと思う。人類の歴史には、こういった『カステラの裏紙』みたいな存在が、多々あったことだろう)。

追記:
そういや思い出した。私は週2回近隣のジムで筋トレするが、日によって「(マシンやダンベルなどの)負荷の重さが違って感じられる」ことがある。ある時は死ぬほどシンドイのだが、またある時は楽チンでグイグイできてしまったり。
…ま別にそんなのはアタリマエだろう。しかしメカニズムとしては、今回の「老眼+精神変容」と同じはず。
「私の筋肉」というハードウェアは、いつも同じだ(そりゃ加齢して性能低下はしとるかも知れんが、1日単位のことではなかろう💦)。変わるとすれば「私の筋肉をドライブするソフトウェア」であり、そりゃ確かにIT機材とか見ても、ドライバの新しさや最適バージョンなどによって、ハードウェアの性能は決まってしまう。
…要するに我々は加齢をはじめとする各種の変化に関して「ハードウェアの加齢(あるいは経年劣化)だから仕方がない。何ぴとといえどもこれは免れ得ない」と(無意識に、固く)信じているが「実はそうじゃない」のかも知れない。

…ま今日の記事は、その「とっかかり」として記録する、というメモ。

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