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『人間の教科書』 なんでも「さん」付けで接すると幸せ感度があがる

朝の日課として世界のあらゆるものに「ありがとう」と言うと感謝の感度が高くなって幸せ感が増しますよ、というお話をしました。

僕自身「ありがとう」と唱えるのがいいらしいと聞いて実践してみようとして当初、大いに戸惑ったことがあります。

それは「ありがとう、ありがとう」などと言いながら、はてこれは一体だれに何の理由で「ありがとう」と言っているのだろうと自分でもよく分からなくなってくることでした。

お日さまに言う、というのはかろうじてイメージがつきやすいのですが、それ以外はなんだか自分でも実践していて「俺、なにやってんだろ」的な疑問がふわふわ浮かんできてしまいます。

「こんなことやって意味あるかな。意味わからん」という気分に陥ったり、しまいにはなにか見返りを求めて「ありがとう、ありがとう」なんて言っていること自体、汚い心持ちに思えてくることもまったくなかったわけではありません。

そんなある日、全自動洗濯乾燥機の寿命が近づいて、買い換えることにしました。

「ああ、この洗濯機も、もう処分するのか。思えば長い付き合いだったな」

などと考えた時、僕はふと気が付きました。

そうだ。今この洗濯機になら心から「ありがとう」って言えるじゃんと。
なにしろ長らく我が家の洗濯物を毎日毎日、洗い続けてくれた洗濯機です。

洗濯機さん、ありがとう。我が家のために長年ご苦労さまでした。

そんなふうに洗濯機を送り出してからは比較的、スムーズに感謝することができるようになってきました。

空気さん、いつもすがすがしい空気をありがとう。
植物さん、こんなに小さいのに生きる活力を教えてくれてありがとう。
おひさま、いつもあたたかな日差しをありがとう。
あちこちに建っている建物さん、今日もしっかり崩れず建っていてくれてありがとう。
世界さん、今日も楽しい一日をありがとう。
一例を上げるなら、そんな調子でしょうか。

そうすると今まで感謝の念なんて抱いていなかったものにも、あれもこれもというかんじで感謝の念がどんどん抱けるようになってくるわけです。

さらに今まで冷たい無機質な空間にいるような心持ちだったのに、同じ場所に立ってみても

「いや、ただの冷たい空間なんかじゃない、俺の生活は、たくさんのモノに支えられて成立している。むしろ、これらのものが無かったら俺の生活は1ミリも成り立たないではないか! うおおお、そうだったのか! なんとありがたいことなんだー!!!」

と、このように思う瞬間もいくたびかありました。

もちろんいつもいつも「うおおお!」とか「なんとおぉおぉ!」などとハイな気分になっているわけではありません。

「ありがとう」の習慣を続けている今でも、なんとなく気分が晴れない日とか、ぬーんとしてしまう瞬間がゼロになったわけではありません。
(おそらくそんな時間がゼロになることは無いと思われます)

しかしながら、生活全体のなかでの気分の確かさというのか、あたたかみとでもいうのか、そういうものが確実に底上げされていることを感じます。

更に、この習慣により力が入るようになった最大のきっかけは、食パンに、それぞれ「ありがとう」「ばかやろう」と1ヶ月間、声をかけ続ける実験の存在を知ったことでした。

実験によると「ありがとう」と声をかけたパンは、1ヶ月後こんがり焼けたパンのような色合いになりました。
しかし「ばかやろう」と声をかけたパンは、黒い腫瘍のようなカビが生えてしまいました。
そして何も声をかけず無視し続けた食パンは、カビだらけとなって最も悪い状態になりました。

このように、かけた言葉によってパンの状態に明らかな変化が出たのです。
そして調べてみれば、がん患者の身体自体でも、これとほぼ同じようなことが起きているではないですか。

これは何を意味しているかというと、パンという物質や、ただの肉の塊かと思えていた身体それ自体にも確かに意識があるということなのです。
(より正確に公平に言うならば「意識のある可能性が高い」ということになるのかもしれませんが。例えば「ありがとう」ではなく「オリゴ糖」と言い続けたらどうなるのか、これは結果が気になるところです)

※ちなみに水の結晶作りでも同じような実験が過去にありましたが「嘘だ」「ありえない」などと激しくバッシングされていたことがありました。しかし、これも気になってよく調べてみると、言霊の有効性を測るための反証実験が行われたわけではなく、ただ「これまでの科学的常識から言ってありえない。反証実験するまでもなく明らかに間違いだ」という、およそ科学的とはいえない反論でもって一蹴されていただけだったのです。ここに科学者と言えどもエポケーできない方は簡単に本質を見誤ることが見て取れます)

よい心がけとして、物質には心なんて本当は無いのに、心があるようにあえて見立てて、そこに感謝をしているわけではないのです。

本当にモノには、なんらかの意識があって働いているようなのです。
これまでの常識では信じられないですよね? でもこれらは事実です。

汎神論、というのは古代のまだ知恵の発達していない半分原始人みたいな人々が未熟さゆえに信奉していたもの、ととらえている方もいるかもしれません。しかし、そうではなかったことに、驚きとともに気が付きました。

むしろ物質文明にどっぷりつかりきった僕達自身の方が、物質の本質を見誤っていたのです。

これらが分かってからは、どんなモノであれ、ひとつの意識として扱う気構えを持つようになりました。
そうなると部屋を清浄に保ったほうが良い、ホコリが被っているような状態はなるべく起こらないようにしよう、などと考え、もし写真立てにホコリが積もっていようものなら

「あああ、写真立てさん、ごめんね。これからはちゃんときれいにするからね」

と、そんなふうに思うようになったわけです。
そしてホコリを取り払うと、どういうことでしょう。写真立てが海軍の将校のように堂々と胸を張って立っているように見えてくるではありませんか。

つまり物質とは、すべてが意識なのです。
それゆえに、あなたが身体さんのことを大切に扱えば、身体さんも喜びますし、ますます健康が保たれます。

逆にあなたが鏡と向き合うたびに映った自分の身体に「こいつって、ほんとどんくさくてばかだな」などという念を送り続けたら、身体さんは食パン実験と同じような結末を迎えることになってしまうのかもしれません。

こういうことが分かってくると、何に対しても感謝の念が抱けるようになってきますし、僕らはただの冷たい物質に取り囲まれて、その中でぽつんと生きているわけではなかったのだということが実感できてくるわけです。

サブウェイをかじった瞬間、サブウェイと自分が等しいと気づいちゃった話[悟り]
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