もったいなくて食べられない
すごく好きな物や、大切な方からいただいたもの、みなさんはどうやって食べますか?
私はどうしてもこんな傾向が。
食べ始めるのがもったいない、食べきるのがもったいない。
好きな食べ物は最後にとっておく派だし、頂いた物なんかだと「適当に食べちゃったら失礼」とタイミングを考えすぎることもしばしば。
結局賞味期限とにらめっこして焦りをつのらせて、納得しきらないけれど、えい!と頂くことになります。
一人で全部を食べてしまうのも、またもったいない。
「これを同じだけ感動して食べてくれる人と分けっこしたい…」と色んな人を思って、やっぱり一人で食べ始められないのです。
「美味しい間に食べてあげて」と言ってもらってようやく、一人でもちまちまと楽しみ始める。
先日、一緒に出かけた友人から「今日頭に流れていた曲を送るね」と音楽をもらいました。
その日はあたたかくて穏やかで歩く速度で気持ちのいい時間が流れていて、お日さまや海風や笑い声なんかを思い出しながら再生しました。
ああ、と少し驚いたのが、歌詞のない曲だったこと。
そして空気感や温度、色彩がとても雄弁に流れてきたこと。
言葉は言葉で表される以上の感覚を表現することが難しくて、実はとても限定的。
けれどもある意味ではその既成の型に頼ってしまえるから楽でもあります。
例えば「あたたか」「穏やか」「気持ちがいい」という風に。
文字で言う「あたたか」より豊かに、自分の中に感じている言葉ならざる感覚がたくさんあるはずで、けれどそれは「あたたか」と言葉でくくった時点で消えていくただの気配になってしまう。
すぐに言語化したくなったり、歌詞のある歌で表現される、ある種出来上がった空気感に思い出との近しさを感じて結びつけたり。
そうすることは簡単なのですが、それはもう「言葉になったもの」になってしまう。
届いた曲を聴きながら、言葉にしなくても良い空気感がまた立ち上がって来て、
そうか、この人は「今」を私よりも少し長く感じる方法を知っているんだなと思いました。
「今」を大切にしたいと思いつつ、そこにくっきりと焦点を当てるのが少し苦手でもあります。
なぜかというとあまりにもたくさんのことを感じてしまって怖いから。
意識が今の自分の感覚だけに留まっていたらいいのですが、どんどんその層が厚くなって、ここにいるありがたさに飲み込まれそうになります。
幸せなんだけど、感情が手に余る。
それでも噛み締めたいからそーっとお刺身醤油のパウチを開けようとして、ぶちまけちゃう、みたいなことが起こります。
またはメントスコーラ。
(参考資料「ぜんぶ、月のせいだ」https://note.com/umenomi_shinkyu/n/n677a8ddaff39)
だからこうして言語で武装してしまうのかも。
押し寄せてくる「今」を言葉に落としてから、安全に噛み締めている。
でもずっとそれを続けていては芸がないですね。
下手くそだけれど、心がいい時間だと言ったならば、素直に認めて、いつもより少し長くその感覚に身を委ねてみる。
斜めからではなく、まっすぐ「今」を手に持ってみる。
怖がらず、少し深めに噛んでみる。
食べるのがもったいないものも、ちゃんとありがたがって喜んで、一番美味しい今をいただこう。
もったいないという名の先送りをやめて、きちんと向き合って愉しんで、余韻と共にお礼を伝えよう。
まずはそこから始めてみようと思います。
いつか言葉に拠る必要がないくらい、幸せの洪水の中でもまっすぐ立てるようになることを目標に。
美味しい物は美味しいうちに。