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給食運営と献立作成を学ぶ。給食にまつわる思い出

給食管理学という給食運営と献立作成を学ぶ授業がある。

講義の全ては来期に組まれている実習に繋がるので、頭の中と電卓をたたく手がフル回転になる。
一つずつ丁寧に理解していかないと、すぐにつまずいてしまう。
つまずいて転んで、起き上がって、またつまずいて、、を繰り返している。

世の栄養士さんや管理栄養士さんってすごい。と頭をよぎると同時に、私も知識と技術を自分のものにしたいとガッツが沸く。
だが、授業中は青くなったり、赤くなったり、紫になったり。先は長そうだ。

さて、「給食」とは食を給するということで、病院、介護施設、幼稚園・保育園、それから事業所の社員食堂や学生食堂もすべて給食の施設である。

「給食」ときいて私が一番にイメージするのは、学校給食だ。
50年以上経った今も小学校1、2年生の頃の学校の給食のことは覚えている。

私は給食と給食の時間が大好きだった。同級生たちと和気あいあいと食べる昼食は楽しくて、間違いなく私は給食が楽しみで学校に行く児童だった。
昼になると、前後左右の机を4つ付けて1つの”テーブル”を作り、長方形の綿の白いテーブルクロスをかけると給食モードに入った。

食器のアルミ製の浅くも深くもない皿は、数多くの給食の荒波を乗り越えてきた年季の入った皿というか容器だった。保育園が飼っていた雑種犬のコロ(ポチだったかもしれない)が使っていた器に似ていると思ったが、誰にも言わなかった。
先割れスプーンはチューリップの形が気に入っていたが、犬食いになる理由他でまもなく学校給食から絶滅した。

家では大人向けの食事が出されるので、カレーやハンバーグ、ミートソースは楽しみだった。
ミートソースの麺はパスタではなく、ソフト麺といううどんのような白い麺が一人分プラスチックの袋に入ったものが出された。袋を破ってミートソースの上に置いて麺をほぐして食べていたと思う。
児童にとっては食べるまでの工程が多いが、私はそれも楽しんだ。
いまソフト麺に出会えるならば正体(食材料)を突き止めたい。

白玉が入った優しい味のかき卵スープも楽しみの一つだった。ふんわりとしたかき卵の薄い黄色とその中に浮かぶ菜っ葉の緑がパステル調で見た目にもわくわくした。私と同じく、初めて食べた白玉団子は学校給食のスープだった同級生もいただろう。
スープの中のふわふわの白玉の数を数えては一喜一憂していたのも懐かしい。
今日はどうして、どうしてたった一つしか入っていないの?

主食はほぼ毎日、無骨な形をしたコッペパンに溶け始めたマーガリンがついてきた。コッペパンは残すと給食袋に入れて、ランドセルにぶら下げて持ち帰る。私は残したことがなかったので給食袋は使わないはずなのに、何かが入っていた。
いったい何を入れていたのだろう。いつも空っぽの給食袋が恥ずかしかったのか。
月に数度、コッペパンは揚げパンになった。砂糖や黄粉がまぶされた甘い揚げパンはおやつのようで、手も口の周りもべたべたにしながら夢中で食べた。牛乳は揚げパンと食べると美味しい。と子供ながらに思った。

牛乳は瓶だった。私は一度、紙の蓋を開けた瓶を倒して盛大に床にこぼしてしまったので、いただきますと言い終わったら最初に牛乳を片付けるようになっていた。

当時、近所に住んでいて同じ登校班でいっしょに小学校に通った仲良しのお友達がいた。
彼女は牛乳が飲めなかった。

今思えばアレルギーだったのだろうか。明るく活発で成績もよく、だれからも好かれた。だが、牛乳だけは彼女に優しくなかった。
給食を食べ終わって片付けが済むと、クラスの全員が一斉に校庭に飛び出していく中で、彼女は教壇の前の席にいる先生の前に一人ぽつんと立って牛乳を飲み終えなければならない。私は廊下に出て、教室の引き戸のドアの近くで彼女を待っていた。

「今日はもうひと口飲みなさい」と先生が言うと、すすり泣きが小さく聞こえてきた。彼女にとって給食の牛乳は苦痛なものだっただろう。
私は代わりに牛乳を飲みたかったが、彼女が出てくるのを廊下で静かに待っていた。

その後、彼女は牛乳を飲めるようになったのか、飲まずに済むようになったのかは覚えていない。

時は経って学校給食を取り巻く環境は大きく変わった。いつの時代も給食を食べる児童たちはみんな笑顔でいてほしいと願う。

そして、児童たちの笑顔がいつも、そしていつまでも続くよう、教員を目指して教職課程の授業でびっちり埋まった時間割で、毎日本当によく頑張っているクラスメイトの皆さん、頭が下がります。
陰ながらそばで応援しています。

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久隅ウメ子
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