発達障害の生徒に対して、保護者すらも持ちがちな現実離れしたイメージ
発達障害の生徒に対して、現実離れしたイメージを持たれていることがある。
しかも困ったことに、発達障害の当事者と触れ合ったことがないと認識している人だけでなく、発達障害の子を持つ保護者すらも、そのようなイメージを持つ人が多いのである。
以下に、ふたつのイメージをそれぞれ書いていく。
まずはひとつめ。
発達障害の生徒は光る才能を待っていて、大きな可能性を秘めている。
それはプログラミングだったりゲームだったりとさまざまで、本人がのめり込むほど興味を示す、特別な何かである。
その何かを伸ばして才能を開花させ、将来、仕事にも活かせたら幸せだ。
……というようなものである。
さて、なぜこのようなイメージを持つのだろうか。
おそらくテレビの影響はあるかもしれない。
発達障害の当事者を扱う番組では、ずば抜けた才能を持つ人や、あまりにも知能が高すぎて学校生活に馴染めない子どもなどが登場することも多いからだ。
また、エジソンやアインシュタインやミケランジェロなど、天才であり発達障害でもあったといわれている偉人たちの影響もあるかもしれない。
たしかにそういう例はある。
わたしも実際、信じられないほどの才能を持ったASDの生徒と関わったことがある。
彼はまさにその光る才能を活かして仕事に就き、いまもよくテレビなどに出て活躍している。
また、そこまでいかなくとも、独特の感性で自由に絵を描くADHDの生徒や、毛嫌いしていた勉強の魅力に目覚めてめきめきと学力を伸ばしたASDの生徒など、振り返ればいくつかの顔が浮かんでくる。
でも、残念ながら、それはほんのひと握りだけである。
ほとんどの場合、発達障害だからといって、光る才能など特にない。
たとえ何かに興味を示したとしても、仕事に活かせるほどの才能はなく、単なる趣味や特技の範疇だったり、それすらも結局は中途半端だったりと、現実的にはそのような生徒が大半を占めている。
幻滅するだろうか。
それともわたしに対してひどい言い草をしていると思うだろうか。
しかし、それならば発達障害じゃない人たちは、一体どうなのか。
先ほどの文章を読んで幻滅した人もひどい言い草だと思った人も、皆、自分自身は周りと比べて特別に優れた才能を持っていると言えるのだろうか。
きっとそんなことはないはずだ。
多くの人たちはたとえ何かに興味を示したとしても、仕事に活かせるほどの才能はなく、単なる趣味や特技の範疇だったり、それすらも結局は中途半端だったりする。
ほら、まったくおなじである。
発達障害であろうとなかろうと、光る才能を持っている生徒はほんのひと握りに過ぎないという、ごく簡単なことである。
次にふたつめ。
発達障害の生徒たちは純粋できれいな心を持っている。
正直なので嘘をつけなかったり、曲がったことが許せなかったり、いつまでもまっすぐな考え方をしたりする。
……というようなものである。
さて、これに関しては、テレビや偉人の影響もあるかもしれないが、発達障害と知的障害の混同からきている可能性もありそうである。
しかしもちろん現実は複雑だ。
嘘をつく生徒もいれば、他人を見下す生徒も利用する生徒も、そして陥れるためにいじめのような行為を起こそうとする生徒もいる。
そしてやはり、発達障害ではない生徒も、まったくおなじなのである。
発達障害であろうとなかろうと、純粋できれいな心を持っている生徒などそもそもいないのかもしれないという、ごく簡単なことである。
ひとつめとふたつめのイメージに共通していることは何か。
それは発達障害という表面的なマイナス面とされている部分が目につくからこそ、無理矢理プラス面を作り出そうとする行為、すなわち圧力や偏見のようなものだと言えるのではないか。
特に発達障害の子を持つ保護者がこういったイメージを持っていると、面談などの際に生徒主体で話を進めることができなくなり、とても歯がゆい思いをすることになる。
別に才能なんかなくても、きれいな心なんかなくても、いいじゃないか。
どうかそんなふうに余計な期待をかけてプレッシャーを与えないでほしい。
現実をきちんと見て、そのままの姿を、丸ごと受け入れてあげてほしい。
高校では、発達障害の生徒も、発達障害ではない生徒も、それぞれが試行錯誤して自身の課題と向き合いながら過ごしている。
彼らの目標は、ひとりの社会人として生きていくための土台を身につけることであるはずだし、教員はそのサポートをおこなっているはずである。
だからこそ、才能やきれいな心など持っていなくても、もしいずれその土台を身につけることができたなら、それは成長という名のこの上なくすばらしい現実であると、わたしは心から思うのである。
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