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『働くということ 「能力主義」を超えて』を読んで考えたことのメモ

勅使川原真衣『働くということ 「能力主義」を超えて』(集英社新書、2024)が、めちゃくちゃ面白い本だった。
序章から、付箋を貼ったり線を引いたり、書き込みをしたりの連続で、1週間で2回読んでしまうほど、いろいろな気づきがあり考えることも多かった。この本を読んで、能力主義を脱して、よりよい教育や職場を作りたいという思いが芽生えている。この記事では、その本から気づいた考えを引用しながら自由に書いてみる。

ちなみに結論を少し先取りすると、政治的・経済産業的な下支えにより、社会に「能力主義」という巧みな「設定」が張り巡らされています。

序章p.27

誰それは報われるべき、誰それは努力が足りない、「能力」が足りない、と序列を明示し、その順にもらいが変われば、生きる糧・豊かな暮らしをしたいおよそすべての人々は、こぞって序列を上げるために、競うようにして頑張る。統治側にとって、政治責任を追及されるでもなく、「自助」の前提で頑張り続ける国民が量産できるだなんて、最高すぎます。

序章p.41

これが必要、これが必要と、要請されることには終わりがなく、個人は「能力」獲得に向け、右往左往。真面目であればあるほど、自分の責任・問題であると考え、構造的な問題からは目を逸らせる格好の逃げ口上になっているとも言えます。

序章p.60


僕が教員になったのは、「子どもたちに幸せに生きてほしい」「平和をつくってほしい」という願いがあったからだ。しかし、「能力主義」という巧妙に作り上げられたシステムの中で、どうすれば子どもたちと一緒に幸せな社会を築けるのだろうか?努力すれば能力が得られるという考えは、さまざまな場所で語られているし、子どもたちが(僕も)大好きなRPGゲームでも、経験値を積めば能力が伸びる。しかし、そもそもそのような社会の「スタートライン」にさえ立てない子どもたちもいる。多くの教員は「能力主義」の世界でマジョリティの立場にいるが、その事実に無自覚でいるのは無責任だと感じる。教育は、政治や経済の文脈に絡め取られすぎてはいないだろうか?

いろいろな職員室で生徒の問題行動などを話すときに「それって、自己責任だよね」という言葉を耳にすることがあったが、そのたびに何とも言えない気持ちになる。福澤諭吉が『学問のすゝめ』で語った「人は皆平等なのに、なぜ差が出るのか?それは、勉強をしたかしないかの違いだ。努力して勉強すれば良いだけだ」という冷たく感じる言葉が、今でも「自己責任」という形で残っているように思える。私は「完全な自己責任」というものは存在しないと考える。家族や出会った人々、住んでいる場所など、さまざまな影響を受けて人は決定をしていく。この点は、以前読んだ中動態に関する本で考えたことともつながる。

特別支援教育を学ぶと必ず出会う考え方に、「社会モデル」と「医学モデル」がある。「社会モデル」は、障害を引き起こすのは社会にある障壁であり、それを解決するのは社会の責任だという考え。一方、「医学モデル」は、障害を医学的に診断し、それを個人の問題と捉え、治療によって解決しようとする考え方である。「能力主義」と「医学モデル」の問題点は、共通しているように思える。この「医学モデル」の問題点は、障害についての考え方だけではなく、今の日本社会を理解するためにも有効だと思う。

※モデルの定義については、https://the-ayumi.jp/2023/01/31/social-model/を参考にした。

自分を自分として生きる人それぞれを「いいね」と組織が受け入れ、組み合わせの妙によってどうにかこうにか「活躍」してもらうーこれが組織論的脱・「能力主義」の土台です。

第二章 p.115

働くことについて、この考え方を大切にしたい。以前、一緒に働いた尊敬する学年主任の先生が、こう言っていた。「先生にはそれぞれの個性がある。怖いお父さん、厳しいお母さん、楽しいお姉さん、優しいお兄さん。それぞれの良さを活かして助け合っていこう。そうやって、チームとしてスクラムを組んで協力していこうよ。」と、4月の最初の学年会議で話したことが、今でも心に残っている。

進捗確認のミーティングと、互いを認め合うエンパワメントのミーティングとを分けて実施するようになった

第二章p.134

どこをどう改善するべきだなどといった話は、互いを慈しみ合ったあとでいいんです。

第二章p.142

私たちの社会は、「自立」を目指すばかりに、本来組み合わさってなんぼの人間を「個人」に分断し、序列をつけて「競争」させるーこれを学校で、職場で、こと現代はしこたまやりすぎました。そこから生まれたものは、冒頭からお伝えのとおり、大多数の方々の「生きづらさ」に他ならないのではないでしょうか。

第二章p.148

p.207 持ち味=志向性という意味では、垂直方向の序列ではなく、水平方向に多様性として広がっているはずです。

第三章p.207

ほんと、ほんとそうそうと、思うということばかり。互いをエンパワメントする場は、職員会議や研修ではなく、数少なくなってしまった飲み会やだけになっている。まずは、「みんなよく頑張ったよね」って、慈しみあいたいし、自分の成長を自分で認めあげられるような、そんな会議や研修にしたい。主任教諭という新しいポストが全国的にできるようだけれども、そういう垂直方向の序列ではなくて、水平方向に教員の良さが広がっていくことで、もっとみんな働きやすくなるんではないのかな、とも思ってします。

p.213 既知の物事から「新しい一面を見る」には、良し悪しを拙速に決めるけることなく、「あなたがいてよかった」「面白いね!」「なるほど、そういう考えもあるよね」と主観を受け止めてもらえる経験が「幼いうちから」必要です。そうしたことこそが社会の土台になると言えましょう。

終章 p.213

生徒同士が聞き合える関係をつくることや、SEL(社会的・情動的学習)の実践が大切な理由は、まさにここにあると思う。社会の土台を築くためのひとつの手法なんだよね。また、ワークショップ型の授業では、発表や共有の時間を大切にすることが重要だと思う。「あの発表、すごくよかったね」「そんな発想はなかった」「最高だね」といった言葉が生徒同士で自然に交わされ、そうした言葉が育まれていく環境ができたら素敵だなと思う。

他にも、たくさん引用したいところや、本にコメントを書き込んだところがあるけれども、ぜひ教育関係者は、本書を手に取ってほしいと思う。


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