撃ちてし止まん
かつて日本は支那において起きた義和団事件の鎮圧を行い、その後も支那に軍隊を駐屯させていた。
日本は当時、朝鮮、台湾を安全保障上の理由で併合し、更に人口が爆発的に増え、狭い国土だけでは貧しくなるからと、満洲へと領土を拡大、またブラジルやアメリカへの移民を推奨していた。
国内には貧困への不満から軍部のクーデターも発生し、治安は悪化、政府への不満は溜まる一方だった。
そんな中、支那大陸での関東軍等の活躍は日本国民にとってかけがえのない希望となっていた。
だが日本軍も支那大陸で全面的に戦争をする体力はない。当然予算もない。だから政府は政府は早期和平交渉に乗り出したが、蒋介石は相手にもしなかった。そのまま支那大陸ではズルズルと長期戦になだれ込んでいった。長期化したのは日本軍が戦闘には都度勝っても敗軍は逃げ続け、終わらないからだ。
そうこうしている内に、それに危機感を抱いた米英蘭が日本に輸出制限を行い、日本は更に厳しくなる。
今度は米英蘭と戦争だとなり、政府は、そして昭和天皇は一貫して戦争回避の道を探ったが、結局は軍部が国民世論及び新聞各社の声を背景に、大東亜戦争の開戦となる。
政府は、特に非軍人は戦争に反対だった。山本五十六も最初は善戦できてもその後は保証できないと言った。
最初から負けることは彼等には分かっていた。
しかし大衆とメディアの声に抗う術もなく、開戦したのだ。
国民は政府から弾圧されていたのではない。
政府が国民の声を恐れて弾圧するようになったのだ。
軍部は政治への不信感の裏返しとして支持を集めた。
まさしく今の分科会のように、政府のコントロールを抜け、法的に自由な立場から暴走を始め、それを国民が支持しているのだ。
大東亜戦争の際の失敗は何も反省されず、全く同じように繰り返されているのだ。
コロナ以降、玉川徹や小沢一郎が政府のコロナ対応における「小出し」をガダルカナル戦に喩えて批判していたが、全く違う。
あの戦争から学ばなければならないことは、憲法を筆頭に汎ゆる法規範を無視した大衆、メディアの暴走とそれに飲まれる政治の弱さだ。
あの戦争の肝はガダルカナル戦ではない。あれは敗戦濃厚な状況においても奮闘した悲劇であり、
そのもっと前から敗戦は分かっていたのだ。
東南アジアを占領した段階で講話しておけばもっと有利に東アジアの秩序を守れた可能性があるのに、止まらず戦線拡大したからこうなったのだ。
戦争の目的はどこか?アメリカを空爆することか?
違うだろ。
東亜の秩序を守ることだ。
コロナも同じだ。
目的はコロナ殲滅ではない。
コロナとの共存だ。
勝ち目のない戦いにまた挑んでいるこのおかしな国を、
歴史から学んで早く救わねばならない。
故きを温ね、新しきを知らねばならない。
我々の戦いは結局我々との戦いだ。