民意と数
また馬鹿が自分の政治運動の為に子供を利用している。
この手の馬鹿はいつも口先では○○の為といいながら、その○○の意見は聞かないし代弁もしない。自分の言いたいセリフを吐かせる為のパペットでしかない。
大体本気で子供の為を思っているなら、如何にして運動会その他をやらせるか、を論じねばならないし、またそれは誰ができないようにしているのか、どうやればてきるのか、の問題だ。
一応ブレーキをかけているのはまず文科省だ。
だがそんなものに従わねばならない程の強制力はない。
またそもそもこのルールについても、所詮はコロナ脳のクレームを防ぐ為の「事なかれ主義」の現れでしかない。
日本の文化だからな。
長い物には巻かれろってのは。
それにそもそも保護者等が本気で運動会その他を開催させたかったらそう動けばよかったんだよ。ぶっちゃけ、本気でやってたらできてた。国は責任逃れしかしないから、「対策してからやってくれ〜」と言うだけだろう。
一切それをせず、それこそ長い物に巻かれ、或いは巻くべく長い物になった馬鹿どもに、国を批判する資格なんざそもそもない。子供に同情する資格も権利もない。
そしてそのお前等の声を拾い集め、また拡散したメディアも忘れてはならない。
お前等大衆とメディアこそ子供等の楽しみを奪った主犯なんだから。
そして左翼馬鹿はいつも批判する自民党のやり方で、自説を通そうとしている。
数の暴力と言う奴だ。
民意と言う「数」だけを根拠に自説をゴリ押しするやり方は、自民党の強行採決と本質的に何も変わらない。
それは数への認識の問題と議論、そして品性の問題だからだ。
そもそも数を指標とするには、その前提が必要となる。それが議論、熟議だ。
その見解を互いに詳らかにし、戦わせた上で、じゃあ数を競いましょう、となるのが常識だろう。
しかしこの国では違う。民主主義ごっこしかできないから、最初から数の話しかしない。そして中身は曖昧なまま、数の話で終わる。
自説を説き、支持を増やそうとはしない。よく分からない「流れ」を察知し、それに乗ることしかできない。そう言う意味では彼等は波乗りをしていると表現するのもありだろう。
だが彼等はサーファーではなく政治家だ。波に乗るのではなく波を起こさねばならないのだ。
そしてその起きた波をしっかりとぶつけ合い、精査し、よりよい波を国民に示さねばならんのだ。
それ等を一切欠いて、
「私は五輪なんて有り得ないと思います!だから潰したいと思います!」の波で押し潰すのは政治家の仕事ではない。しっかりと自身の案も精査し、対案ともぶつけて精度の高い、国民の為の、また五輪なら選手や観客、各スポンサーの為の議論をしなければならない。
しかしコロナ脳はそれが余りにも欠けている。
自分がコロナ怖い→全員怖がらねばならない→怖がらない奴も怖がる我々に無条件的に協力せねばならない
まさにファシズム、全体主義的な議論をしているのだ。そんな奴等がリベラルを称しているのは余りにも出来の悪い冗談だ。
また彼等は五輪において外人を入れることにも批判的、かつ他国のことより自国優先で見事な国粋主義の実践に励んでいる。
そんな全体主義に負けるのがこの国だと言うのは既に述べた。長い物には巻かれる主義のこの国では。
果たしてこんな国で「民意"と言う言葉遊び"」だけで政治を進めることは正しいことと言えるのか。
皆少しは真面目に考えてほしい。
具体的に自分達が被る不利益を想像してほしい。
そしてもし興味がないなら権利を放棄してほしい。それは子供と何も変わらないから。
有権者や主権者を名乗らないでほしい。
そんな奴等の数も数には変わらないから。