自由、放任、寛容、多様性、リベラリズム
コロナ禍(人災)はやはり、起こるべくして起こったものだ。
しかしこの発言を受けて俺が陰謀論の話をすると思われては困る。
そうではなく、コロナ以前からの日本人の価値観がそうさせるものだと言う話だ。
俺はコロナ脳から見れば、
的に見えていることだろう。
しかし現実は逆だと断言する。ヤフコメを見ているとつくづくそう思う。
今回の立てこもり事件、色々こんなクソみたいな、カスみたいな世の中ににっちもさっちも行かなくなり、嫌気がさして狂ってやってしまったのだろう。
その狂うと言う感性に対しては、俺は人間としての正常さ、誠実さを感じてしまう。
だがヤフコメは違うようだ。
ヤフコメの意見ツートップがこれ。
薄情どころか無情ってか利己主義そのものだろこれ。
こいつ等どうせ「私コロナ怖い」騒動に他人を巻き込んできたタイプだろ?
こいつ等口先では「好きにしろ」とは言うが、本当は、「俺の許容範囲において好きにしろ」と言ってるだけで、それは即ち「空気読め」と言ってるに過ぎない。
なんて言うが、その発言自体が非寛容的(まさかこのコメントを読んで、互いの考え方を尊重した発言と思う者はおるまい)で、その非寛容さこそが、迷惑をかけてはいけないと人々を萎縮させ、逆にこんな形で多大な迷惑を生むこととなる。何ならこの手の人々は、「迷惑をかけることに意義を見出す」し、正当性を得る。何故ならその不寛容こそ、社会を抑圧し、迷惑の元凶となるからだ。
それに重要なのは、この手の非寛容な放任主義もどきは人々の選択に介入しておきながら一切その責任は負わないどころか尚更自己責任論を盾に突き放す。
これは何をどう考えてもリベラル、自由、寛容とは対極的な態度で、全体主義、不自由、非寛容そのものだ。
その点俺はリベラル、寛容だから、社会が様々な人々を包摂すべきと考えるし、社会が人を「無敵の人」にするように突き放すのでなく、その人の意思を尊重せよと言いたい。
勿論、寛容になるとは、この最終的な決断、行為に対してではなく、そのようになる前に寛容性を担保し、社会からはみ出て「無敵の人」に進化することを抑止することを指す。
そしてその寛容性とは放任を人々に義務付ける"ことではない"と言う理解も肝要だ。
あくまで他者の自由に介入するのは、直接自分自身の身に許し難い不利益を受けると想定される場合に限り、その身を守る範囲において許されると考えるべきだろう。
話は逸れるが、俺は今までタバコを一度も吸ったことがない。しかし、タバコの煙は案外好きで、喫煙席なんかも気にならないタイプだ。
一方妻も吸ったことはないが、タバコの臭いは全く駄目。俺が飲み会なんかに参加した際に喫煙者がいれば、服の臭いで臭い臭いと言う程に嫌いだ。
では俺や妻はタバコとどのように向き合うべきか。
それは吸いたい人が吸いたくない人に害を与えないと合理的に判断し得る範囲内で喫煙を許容することではないか?
俺は、俺の目の前で煙草を吸う人よりも、全く見えもしないところで喫煙者を憎悪し、禁煙を過剰に進めるような嫌煙家が大嫌いだ。
それは自分自身のテリトリーより外の事象に対して偽りの正義を盾に不当に介入してくるからだ。
同じような話でアルハラ的に忘年会等の飲み会への参加を強要する人は俺も酒好きながら好きでないが、それ以上に自分が飲み会に参加したくない、拒否した時に立場が不利になりたくない、なる理由で会そのものを潰して平気な人間も大嫌いだ。
結局彼等は自分の権利、自由を主張しながら、他者の権利に不当に介入しているだけだからだ。
寛容さ、不寛容さの境目は、結局そのように具体的な利害の周辺に限って線引きし、都度具体的に判断、処理しなければならないものだと思う。
その判断、処理を単純化する為に抽象的な理念を創り上げ、その理念そのもので社会を制限するのは誰かの権利を守る哲学、思想とは絶対になり得ない(前例としての蓄積はよくても安易に制度化はしない)。
コロナ禍以降に顕在化されたこの国の理不尽さとは、このような社会的判断における、寛容と非寛容の定義に関する未整理が、道徳主義の押し付けと、一見してそれとは対極的な無責任な放任主義(自己責任論とも言えるか)を生み出し、相互に歩み寄れないことなのではないか。
そして今苦しんでいるのはやはりコロナウイルス感染症と言う病ではなく、それを防ぐ為と称して繰り広げられている対策の犠牲者達ではないか。