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足枷としての完璧と、ほどほどのコンセンサス
外国人と会話していると必ずと言っていいほど出てくる日本あるあるのひとつに、「なんでも完璧を求められる」というものがある。
特に仕事上での話。
厚切りジェイソンとかがネタにしてそうなテーマなのだが、細か過ぎるこだわりは日本人以外には理解されにくいようだ。
確かに準備段階から完璧を目指し、満を持してという形容詞がつかないとリリースしないという判断をする日本人が多い。
客からのクレームが怖いのか、人様に不完全なものを見れられないというプライドなのか、何かあったときの責任を押し付けられたくないという会社的な文化なのか知らないけど、とにかくGOのジャッジが出にくい。
名パサーは数多くいるけど、ゴール前で誰もシュートを打たないという日本のサッカーと同じ気質かもしれない。
とにかく、完璧にこだわるデメリットは大きく2つあると思う。
一つは、リリースするまでの期間が長すぎて気持ちが萎えてしまうこと。
もちろんプロジェクト・リーダーや一部のモチベーションの高い人間はコツコツ完成に近づくことでテンションも上がるだろうが、みんながみんなそういうわけでもない。
もう一つは、トレンドに取り残されてしまうリスク。
このご時世、流行なんていつ変わってもおかしくない。
そんな時代の中で、「完璧」をつくり上げたという実績や自負は、次のトレンドに乗り換える際の足枷になる。
一度手にした「完璧」を捨てて、次のトレンドに乗り換えるタイミングを見誤るリスクを増やしてしまうことにもなるわけだ。
というような記事を書いていたら、NHKで放送された落合陽一氏と台湾のオードリー・タン氏の対談のラストで「ほどほど」の価値について言及していた。
多様な文化圏だと「ほどほど」な価値ってわりとあると思うんですよ。
つまりお互いに理解し得ない部分に関して、お互いに理解し得ないからこそ
「ほどほど」ところまで持っていければいいやというラインを決めることが多い。
でも日本の現状は単一の民族国家なので、完璧に理解しようというところに力割いちゃう。
8割出来ていればいいのに、残り2割上げるのに全体の8割の時間を使ってしまうってことがある。
(略)
ある程度「ほどほど」で物事が成り立つようになると、人の働き方や生き方が多様になり、その結果生まれてくるものというのは、これからの人の多様性や時間の使い方に直接跳ね返ってくるんじゃないかなと僕は思っています。(適度に加筆修正あり)
ーー落合陽一
ほどほどのコンセンサスと多様性の社会へ
ーー落合陽一
「ほどほど」、これこそ一番大事なスタンスだと思った。
職場でのストレスや意見の食い違いも、この「完璧」を求める人と「ほどほど」で次々に進める人とのスタンスの違いであることが多いようにも思う。
だから、「ほどほど」のコンセンサスを明確にすると、部署内のストレスもを一気に軽減できる。
自分の部署における「ほどほど」というラインをどこに引くか、この討論こそ大事なのではないかと僕は思う。