愛とは~『飽きっぽいから、愛っぽい』1月後半の読書記録
作者名を伏せられた状態で読んでも「あぁ、これはこの人の文章だな」と思う人が何人かいます。note上でしか交流がなくても、書き手の性格や生活が伝わってくる文章って、あると思います。
あまたに存在するプロの作家さんでも「これはこの人にしか書けない文章だよなぁ」と思う人がいて、その一番最初に名前をあげたくなるのが岸田奈美さんです。
岸田さんの著作を読むのは『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』『傘のさし方がわからない』に続いて三冊目ですが、個人的にはこの『飽きっぽいから、愛っぽい』が一番好きでした。
私は、エッセイを書きたいと思い続けている人でなので、たくさんの人のエッセイを読んで生きてきました。
でも、なぜエッセイという形にこだわるのかは、自分自身でも未だによくわかっていません。そして、どういう作品が良いエッセイなのか、ということもまだまだわかりません。プロの作家さんのエッセイで好きな作品はいっぱいあるけれど。
どうやら、岸田さんのような文筆を生業にしている人でも「なんのために、エッセイを書いているんだろう」と思うときがあるみたいです。
以下は、『エッセイを書くということ@パソコンの前で』というタイトルのエッセイから引用しています。
自分の話になってしまって恐縮ですが、私がエッセイを書くうえで「(なるべく)やりたくない」と感じていることが2つあります。
ひとつめは「教訓や学びを文章に強く紐づけないこと」、ふたつめは「自らネタを探しにいかないこと」です。(できていない時もあるので大目に見てほしいですが…)
ひとつめをやりたくないと思っている理由は、平たく言えば【説教ぽくなるのがいや】で、ふたつめをやりたくない理由は【日常が面白くなくなりそうだからいや】です。当たり前ですが面白い文章を書くことよりも、生活が優先です。
私の思いはこちらの記事では省きます。
私がエッセイを書きたい理由も、上に引用した岸田さんの思いに近いところがある気がしてなりません。現在の自分を肯定したいから書く、みたいな。
それに気づかされたとき、なんというか、もっといま現在の自分のことを信じて書いてみてもいいのかな、と思えました。
引用したエッセイは一部分なので、岸田さんの思いがどのように着地するのか、私にとってはすごく納得感のある表現だったので、エッセイストさんにも、そうじゃない人にも、ぜひ読んでもらいたい一冊です。