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『死ぬまで生きる日記』~7月の読書記録

働きはじめてからというもの、文字が頭に入ってこず、読書が全然できない日々が続いている。
そして、ネガティブで弱気な記事やつぶやきが多かったので、noteのフォロワーが気づいたらどんどん減っていて、一人で笑ってしまった。そりゃそうか。頑張ってフォロワーを取り戻さなくては!とは思わないけれど、単純に読み手が減ってしまうのも、読書が出来なくなってしまったのも悲しい。

今、手元には、有吉佐和子の『青い壺』があるのだけれどこちらはまだ途中。読み切れるかどうかはわからない。

『青い壺』をちまちまと休日に読み続けている間に、図書館から予約の本が届いたという連絡がきた。それが土門蘭さんの『死ぬまで生きる日記』だった。ずっと気になっていたがこのタイミングで読めたことに感謝するくらい良かった。1日半、夢中で読んでしまった。

これは、土門蘭さんのカウンセリングを通した心と身体の有りようを記録した、2年間の本当の話(エッセイ)である。

なぜ自分は毎日のように「死にたい」と思ってしまうんだろう。
それが長年の私の疑問だった。
初めてそう思ったのは十歳の頃。カウンセリングを受け始めた頃は三十五歳だったので、二十年以上そう思い続けてきたことになる。
(中略)
そしてできれば、「死にたい」という気持ちが消えたらいいと思っていた。

『死ぬまで生きる日記』

『死ぬのを延期し続けている』というタイトルの記事をnoteで見かけたのだけれど(たしかこれは作家の朱野帰子さんの記事だったと思う)死ぬのを延期し続ける=(自然な死が訪れるまで)生きる工夫を自分でしておく、ということが書いてあったように思う。うろ覚え。

最近はほとんどなくなったけれど、死にたいと思うことは、私にもかつてはあった感情だし、そう思わない人っているの?と正直に思っていた。世の中には生きていることを全力で歓迎している人や、そこまではいかなくても「死」まで思いを至らせない人が、どうやら、いるようである。年齢を重ねるにつれ、私もやっとそちら側へと、行くことが出来るようになった(と思いたい)。

最後に私は、本田さんに本名を告げた。土門蘭という名前で、文章を書く仕事をしているのだと。

『死ぬまで生きる日記』

言葉にするという目的さえあれば、目の前の事象や自分の感情に意味があるように思えてきて、ようやく受け入れられる。書くことに何度救われたかしれない。書くことがある、というのはつまり私にとって生きる意味なのだ。

『死ぬまで生きる日記』おわりに

そういえば、先月、昨年応募していたエッセイの受賞作の発表があった。私には連絡が来なかったので、もちろん選外であった。けれど、書いているときはやっぱり楽しく、書き上げたときには充足感があったような。
最近は全然かけていないけれど、久しぶりに公募のエッセイに出そうかな~という意欲が湧いてきた。

出したいなぁと思っているのはコチラ。良かったらnoteのエッセイストさんも一緒にどうかしら。お題が決まっているのでちょっと難しいかもしれないけれど、元気な時に少しずつ仕上げていきたいな。


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