オアシスの樹
砂漠ばかりが広がる惑星に、たった一つだけオアシスがあった。
そのオアシスは惑星で一番高い山の上にあった。
オアシスの中心には新鮮な水が湧き出る小さな泉があって、泉の近くには立派な樹が翠色をした小さな葉を生い茂らせていた。
ほっそりとした幹の佇まいと、豊かな枝葉は、豪奢なドレスを纏った貴婦人のようだった。
その樹のそばに、腰の曲がった老婆が一人住んでいた。
大きな岩の隙間に人が一人入れるほどの小さな空間があって、老婆は夜はその洞窟のなかで過ごしていた。
アンシ・レキイーエム、というのが樹の名前であった。
老婆は朝目が覚めると、細く湧き出る泉の水を皺だらけの手で掬う。
水をこぼしながらよたよたと百歩ほど歩いて、アンシ・レキイーエムの根本にかけてやる。
乾いた空気の中で、土はすぐに乾燥する。
また泉まで歩いて、水を掬う。
それを日没まで繰り返す。
老婆の日課だった。
このオアシスは昼は短く、夜は長い。
夕暮れどきになると、老婆はアンシ・レキイーエムの根本に腰を降ろして、低くしゃがれた声で老婆の故郷の歌を口ずさんだ。
『エトマ、彗星の唄を歌ってよ』
アンシ・レキイーエムは枝をざわめかせながら言った。
老婆の名前がエトマだということを覚えているのは、この星でアンシ・レキイーエムだけである。
エトマは立ち上がった。
アンシ・レキイーエムの要望に応えるために、腹に強く力を込めて歌った。
老婆の声は朗々として、砂漠の乾いた風に乗って、どこまでも響いていった。
山の麓にある灰色の廃墟の亡霊たちにも聞こえただろうか、とエトマは思った。
亡霊たちは今も、エトマを呪って彷徨っているだろうか。
飛び出た目をぎょろりと動かして、愚鈍な脚を必死に動かしながら、エトマとアンシ・レキイーエムを探しているのだろうか。
『うつくしいね。エトマはずっとうつくしいね』
アンシ・レキイーエムは幹の割れ目から、黄金の樹液をこぼした。
エトマは舌先で樹液を舐めとった。
甘やかな味。
エトマはひび割れた自分の皮膚と、アンシ・レキイーエムの瑞々しい葉を見比べる。
ずっとうつくしいのはアンシ・レキイーエムの方だ。
とっくの昔に視力を失ったアンシ・レキイーエムには分からないのだろう。
歌い疲れたエトマは、アンシ・レキイーエムのそばでとろとろとうたた寝をした。
頬にあたる幹は硬くて、わずかに温かい。
昔の夢を見る。エトマとアンシ・レキイーエムが少女だったころ、ふたりは灰色の城のなかで暮らしていた。
進化の過程で、人々は俊敏な手足と複雑な動きをする舌を失っていた。
奇妙なことに、エトマだけは祖先のように生まれつきよく動く手足と舌を持っていたので、アンシ・レキイーエムのお世話をしていた。
アンシ・レキイーエムはほとんど動くことができなかった。
エトマとアンシ・レキイーエムの間に秘密はなかった。
お互いがお互いを愛していることも、すぐに伝わった。
夜風が冷たくて、エトマは目を覚ます。
寒さは体の節々を痛ませる。
エトマは洞窟の中に入り、枯葉の山の中で体を丸めた。
季節は巡り、春になる。
砂漠の気候にほとんど変化はないけれど、春はアンシ・レキイーエムが花を咲かせる。
分厚い艶のある白い花弁が、天に向かって口を開けている。
円錐形の花は、水を注ぎ入れるための器に似ていた。
いつもなら数日で枯れるはずの花は、なかなか枯れなかった。
『なんか変な感じなの。体がザワザワする。わくわくするような、恐ろしいような、不思議な感じ』
エトマは枯葉をアンシ・レキイーエムの根本に集め、それに潜って眠った。
アンシ・レキイーエムの不安と高揚を、エトマも感じ取っていた。
少女の頃のアンシ・レキイーエムの髪は、木の枝でできていた。
身長よりも長い髪は、アンシ・レキイーエムの広い居室の床を覆い尽くしていた。
春になるとアンシ・レキイーエムの髪は白い花を咲かせて、花が枯れると、夜の闇のように黒い果実をつけた。
親指の爪ほどの大きさの、光沢のある果実をもらいに、城の前に人々が列を成した。
エトマはアンシ・レキイーエムの髪から丁寧に果実を摘み取った。
籠いっぱいになった果実を、大臣は一粒ずつ民に分け与えた。
アンシ・レキイーエムの果実を一粒食べると、人々はほとんど飲まず食わずで次の春まで生きながらえることができた。
この痩せた土地しかない星で、食べられる植物はわずかだ。
アンシ・レキイーエムの果実だけが、唯一といえる栄養源だった。
大臣は子供を産め、増やせと民に呼びかけていた。
そうすればこの星はもっと繁栄することができる、という。
人々は次々子供を産み、人口は増えていく。
アンシ・レキイーエムが実らせる果実が年々減っていることを、エトマは気づいていた。
ある春の終わり、アンシ・レキイーエムはぽつりと言った。
「私ははおそらく、長くは生きられないと思う」
エトマは怒りで奥歯を噛み締めた。
アンシ・レキイーエムの母も、祖母も、曽祖母もみな短命であった。
昔、人々は別の星からこの星へ移り住んだ。
宇宙船にたくさんの移民を乗せ、食糧源としてアンシ・レキイーエムの高祖母を積み込んで。
けれどエトマもまた、アンシ・レキイーエムに寄生する一匹のヒトにすぎない。
ある日、大臣が一人の男を連れてきた。
丁寧に、けれど媚びた口調で大臣は言った。
「アンシ・レキイーエム、夫を迎えてはどうだろうか」
アンシ・レキイーエムも、エトマもすぐにその意味を理解した。
大臣もまた、アンシ・レキイーエムの果実の収穫量が減っていることに気づいていたのだろう。
黄昏のなか、アンシ・レキイーエムは隣の部屋に夫になるだろう人が控えているのに気付き、声を殺して泣いた。
エトマはアンシ・レキイーエムの肩を抱いて言った。
「逃げよう」
アンシ・レキイーエムは虹色に輝く瞳で、エトマを見た。その瞳は不安で揺れている。
心優しく繊細なアンシ・レキイーエムには、知らない男と交尾をするのも、民を見捨てて民がみな餓死するのも、どちらも恐ろしいことだろう、とエトマは思った。
エトマはアンシ・レキイーエムの目を固く見つめて、言った。
「私が殺したんだ。私がみんなを殺した」
エトマのアルトは深く響き、アンシ・レキイーエムの身体の芯を震わせた。
アンシ・レキイーエムは右目からぽたりと涙をこぼした。
それを合図に、エトマは鉈でアンシ・レキイーエムの髪をすべて断ち切った。
脚の動かないアンシ・レキイーエムを担いで、エトマは山を登った。
逃亡を知った大臣や民たちは二人を追いかけたが、退化した脚ではエトマのように切り立った崖を登ることはできなかった。
泉を見つけたエトマはアンシ・レキイーエムを大地に降ろした。
そこでアンシ・レキイーエムは地中に深く根を張った。
国はあっという間に滅びた。
そのさまを、エトマとアンシ・レキイーエムは静かに見つめていた。
柔らかだったアンシ・レキイーエムの肌は、徐々に硬くなって、完全に植物になった。
人間らしさをすべて失ったあとで、アンシ・レキイーエムは生き生きとしはじめた。
まるで、植物のほうが本来の姿であったかのようだった。
エトマはアンシ・レキイーエムのそばで、アンシ・レキイーエムの果実を食べながら生きながらえた。
そうして百年が経った。
アンシ・レキイーエムが花を咲かせてから十日目のことだった。
朝、エトマが目覚めると、アンシ・レキイーエムがささやいた。
『今日、来るかもしれない』
アンシ・レキイーエムは緊張していた。
エトマは慈しみを込めて樹皮を撫でた。
夜になるまでなにも起こらなかった。
エトマは眠気に耐えながら、ただそのときを待った。
『来た!』
真っ暗な空に、一筋の光が現れた。
光は空の上で分裂して散り散りになり、無数の光はまっすぐ、アンシ・レキイーエムに向かって落ちてきた。
幾多の光はすべて、天を向いた円錐形の白い花に吸い込まれていった。
一瞬、世界は重苦しい闇に包まれた。エトマは呼吸するのも忘れていた。
次の瞬間、白い花が光を放ちながら弾けた。
『私、やっと分かった!』
アンシ・レキイーエムは歓喜に震えて叫んだ。
『私、生まれたときからずっと今日を待っていた。エトマと一緒に待っていたの!』
エトマは目を閉じることなくアンシ・レキイーエムを見守っていた。
眩い光に目を焼かれ、視力を失っても、皮膚の感覚だけを頼りにアンシ・レキイーエムの幹を両手で抱きしめた。
アンシ・レキイーエムの躰は躍動して、燃える恒星のように熱かった。
『うれしい、エトマ。次の世代のこどもたちが生まれるよ。私たちの、こどもたち』
枝をしならせて、アンシ・レキイーエムはエトマを抱きしめ返した。
夜明けとともに、アンシ・レキイーエムは黒く艶やかな大きな実をつけた。
実はエトマの手のひらほどの大きさもあった。
びっしりと成った実で、アンシ・レキイーエムの枝は重そうに垂れ下がっていた。
熟した実は自然と枝から落ちて、山の山頂から麓に向かって転がっていく。
目が見えなくなったエトマは地面にぴたりと耳をつけて、実が大地を転がっていく様子と感じ取り、微笑んだ。
『うれしい、エトマ、私、うれしい、うれしい……』
すべてのエネルギーをこどもたちに分け与えて、アンシ・レキイーエムはゆっくりと生命を失った。
枯れていくアンシ・レキイーエムのそばで、エトマは子守唄を歌った。
これから大地に芽吹くすべてのこどもたちに向けて。
エトマの子守唄は荒野の乾いた風に乗って、麓まで響き渡る……。
おしまい。
イラストレーション:かやの
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