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ジム・ジャームッシュ「ストレンジャー・ザン・パラダイス」(1984)89分
この映画の最大の見どころは、映像に「編集」が加えられていないことだろう。全てのショットは、1台のカメラでノーカット撮影され、終わると黒味(ブラック)が入る。音声は別扱いで、時にショットや黒味をまたぐ「編集」が施されている。
編集が加わらない映像というと、「映画の父」リュミエール兄弟のシネマトグラフが思い浮かぶ。有名な「工場の出口」「ラ・シオタ駅の列車到着」「水をかけられた散水夫」も編集はされず、まるで1895年頃の風景スケッチのように見える。しかし、リュミエール社の日本での撮影に見られるように、大きなカメラで撮影をしていれば、被写体の人々はカメラをジロジロと見つめるのが普通なのだ(「勝手にしやがれ」の通りのシーンのように)。もし、誰もがカメラを無視しているとすれば、そこには「カメラを無視する」という「演出」が加えられていることになる。
若い3人の主人公がなんとも言えない雰囲気をかもし出している。デッドパン(Deadpan)と言われるように、皆どこか無表情である。唯一、ウィリーの相棒のエディだけが人の良さそうな笑顔を見せるが、ハンガリー出身のウィリーもエヴァもロッテおばさんも、素の表情は硬い。しかし、編集の加わらないショットの中で、まるで演劇を見ているかのような役者の演技を楽しむことができる。気だるい芝居なのに、時に緊張感を感じるところもある。
編集がつまんでしまうであろう「間」の存在が、「間の悪さ」が、撮影収録でありながら生々しいリアリティを与えていると思われる。
そして、表情もセリフも感情が抑えられているが故に、ほんの少しの笑みや、つまらないギャグの滑りや、小さな思いやりがドーンと心を打つ。ジョン・ルーリーのゲジゲジ眉毛に悪い目つき(でもちっとも「悪」を感じさせない)と突き出す唇が、スクリーミン・ジェイ・ホーキンズの無骨な音楽も、そのゴツゴツとした質感に貢献している。
長谷川町子さんも書いていたではないか。「おべんちゃらの満面の笑みより、頑固親父の一瞬の微笑みがうれしい」と。なにもかもが過剰な時代にあって、この引き算の発想こそ、学ばなければならない気がしている。