グレタ・ガーウィグ「レディ・バード」(2017)94分
映画を見ている途中で「待てよ、この映画は前に見たんじゃ?」と気づくことがある。この映画もどうやらそのようで、主人公が走っている車のドアを開けるシーンで「あらら」と思った。
最初に見たときは、「田舎で反抗的だった生意気娘が、都会に出て故郷と親の有難さに気づく」的な、よくあるプロットと見切ってしまったようである。この監督が6年後に「バービー」を撮り、しかも、あの美男子は今をときめくティモシー・シャラメではないの。自分の目が節穴だと感じるのは、今に始まったことではないのだが。。。(泣)
映像としては、登場人物たちが横に歩くシーンのジャンプ・カットが効果的だ。背景はサクラメントの様々な街並みであり、ニューヨークも使われているが、街の外観が登場人物の心象を表すという、教科書通りの編集となっている。もう忘れてしまったが、「パターソン」でもこのようなカットが多用されているのではなかったか?
そして車の「運転シーン」である。ロッセリーニの「イタリア旅行」に触発されたゴダールは「男と女がいてクルマが1台あれば映画が撮れる」と言ったという説がある。「勝手にしやがれ」でも「気狂いピエロ」でも「運転シーン」と車窓の風景は、登場人物の心象とシンクロして観客の心を打つのだが、この作品では「運転シーン」は特別な意味を持っている。
そもそも冒頭の母娘の対立からして「運転シーン」なのだが、運転する母と助手席の主人公、運転する父と助手席の主人公、運転する男友達と助手席の主人公という「運転シーン」が続いたあとで、高校を卒業した主人公はついに運転免許を取る。愛し合っているがゆえにぶつかってしまう母と娘だが、娘が都会に出て故郷を思い起こし、母に残した留守番電話のメッセージの映像が泣ける。
それは初めて自分で故郷の街を運転したシーンであり、ガーウィグ監督はその美しい車窓の街並みを、いつしか母と娘のそれぞれの「運転シーン」をクロス・カットさせ、シンクロさせていく。それは、娘の成長とお互いの愛情と信頼の確認という、(書くと陳腐そのものだけど)映像で感じさせてくれる素晴らしく美しいシーンとなっている。
YouTubeにこの映画のメイキングシーンが載っていた。監督が俳優だけあってカッコいい。