くそこん3 クソババアと言えない根性なし
良い介護とは何だろう。虐待に該当することに怯え、接遇接遇と言われはしたけれど。
先輩から「自分の家族にしてあげるように支援しよう」なんて言われたけれど家族仲の悪い私にはまったくイメージできないので「自分がしてもらいたいと思える支援」のほうがイメージしやすかった。もちろんこれはこれで穴はあるが。
“守破離”という言葉もあるように、物事を学ぶときはまず教わったことを守り、忠実に模倣することが肝腎だ。
でも私に介護を教えてくれた人のほとんどが〝おばちゃん〟と呼ばれる年代の方たちだったのよね。全員ではないけど中年以上の女性が多かった。
だから彼らが話す口調なんかも模倣して「ありがとねぇ」「ごめんねぇ」みたいなしゃべり方をしていたのだけど。
職場ではそれが問題視され、「利用者に対して馴れ馴れしすぎる」と叱られました。
当時は、先輩たちもこういう口調なのになんで自分だけ叱られるのかと疑問だったがあとになって理解できた。
思い起こせば私は利用者から「ちょっと、オニイサン」とよく声をかけられていた。おばちゃんが「ごめんねぇ」と言うのとオニイサンが「ごめんねぇ」と言うのではニュアンスが異なるのか。
そこに区別を入れるのはセクハラやエイジハラスメントにつながるのではないかという気もしないでもない。若い男性の外見だから支援ができないということにはしたくない。そもそも介護職はストレスが多く離職率が高い。100年後を見据えたとき、介護という職種は残っているだろうか。
100年後の介護は機械がやっていてほしい。というか自分は機械にやられたい。陰部洗浄どころか身体介助だって、他人に触られたくない気持ちはある。そういう選り好みができないADLになる可能性は常にある。
でもその機械を操作するのは介護士なのだろう。誰でも扱えるくらい簡単に操作できる機械にしないとならないのは大変そうだ。
身体介助は武道をやっていた人が上手な印象がある。運動音痴で逆上がりも息継ぎも未だにできない私とは住む世界の異なる人たちだ。ケアマネもだんだんなくなってセルフプランになっていく風向きらしいし、機械が介護をする時代が待ち遠しい。
現状でもヘルパー2級時代の介護観と初任者研修時代の介護観のギャップを感じることはあった。古い常識の介護は淘汰されると思う、というより淘汰されてほしい。が正確か。一貫したチームでの支援をとりづらい状況がある。
職場内の研修もパートだと受けさせてもらえず、というか正規職員が研修を受けている間のシフトをパートが埋める形になっていたのか。
介護自体は一度学べば一生物の学問で未来までずっと残るけど、今の現場の介護は悪循環を起こしている。
コミュニケーションが下手なのは認めるけれど、職務として必要なほうれんそうをしてもらえなくなっていったことには疑問が残る。
主任は「言ってもらえるうちが花」と言っていたが、上のものが言うべきことを言わなくなったら単なる職務怠慢でありネグレクトなのではないかとも思う。
ミーティングの議案に「100年先まで持続可能な介護を実現するプレゼンティーイズム」とか挙げてくる年上の元ヒキニートの非正規は扱いづらかったというのはとてもよくわかるけれど。
私は利用者に「クソババア」と言える介護士になりたかった。
世話を焼くのが好きで、世話を焼いているんだったらホテルマンになってるし。
毒蝮三太夫氏のように軽口たたきながら関係性を築いていけると信じていたけど。
当たり前だけど誰しも相手によって態度を変える。目上と目下、正規と非正規。エイジズム。セクハラ。わかりやすい話に回収するのは卑怯だよね。
少なくとも私は、好き嫌いで仕事をしない自分が好きだ。
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