コロナにかかって病院に行けなかったときのことをふり返る
1年半くらい前にコロナにかかったときのツイート(当時)をまとめてnoteの記事にしようと思っていて、着手しないままこれだけの時間が経ってしまった。
コロナがどういうものかを周知する期間が終わり、あとは個人の判断でということのようだが、私は極端にコロナを恐れているタイプの人間だと思う。
情報は古くなっているが、当時のことを思い出しながら記事をしたためることで、なんらかのお焚き上げを試みてみる。
結局のところ常に正しい選択や振る舞いをできたということはなく。間違えたところは許されなくても、粛々とごめんなさいするしかないんだけど。
誰だって我が身に降りかかれば、あわてるしわかった気になってて情報や状況が知らずに変わってたなんてことも多かった。
そも2022年9月26日以降みなし入院では医療保険の対象にならなくなってたのを知らなかったからね。
当時はパートタイマーだからシフトに入れないのは収入的にマジで痛かった。
オンライン診療受けて、ものの一時間半で薬局から処方薬が届いたのは衝撃的で、制度的にも技術的にも進歩を実感した。
咳症状はしばらく残るが、感染力は発症から10日までのようだった。
免疫勝負で、かからないようにするというより感染してもいかに無症状で済ますかで。医療機関においては重症患者をいかに死なせないかにならざるを得ない。
新聞やテレビが絶対でなくなった時代に、いかに必要な情報を得るかというのも悲しい話だけれど。
My HER-SYSに登録するためにiPhoneで健康保険証の写真を撮って添付したら、HEICファイルに対応していないという。撮った写真をさらにスクショして送ることで解決する。
あとから考えれば医療機関は病床も人員も足りずひっ迫していたとわかるが、私が元々医療従事者を志望していたこともあり、この時期のツイートでの恨み節は悲惨である。
「初診料がかかるから」と断念を促してくるので「命には替えられないので払います」と言うと有耶無耶なまま断られちゃうんだよね。
日をまたぐと担当者によって言うことが変わってたり。
コロナ罹患する3年前も、別件で循環器科を受診しようとしたときに、初診料払ってでも見てほしいと電話したが断られたことがあった。
医療機関から受診を断られるのってとてもつらい。
「死ね」って言われたときと同じ気持ちになった。もちろんそのくらいじゃ死ねないから、「死ね」と言われたのに生き続けなきゃならないつらさを抱える羽目になる。
生きていちゃいけない命なのかなって気分になる。
病院は基本的に患者に来て欲しくないってことで良いとは思うものの、行きたくなくても行かなきゃならない容態になってしまうものであるからして。
でもしかでやってて欲しくない職種だけど、オンライン診療が普及されたら淘汰圧がかかるとも思えず。
命を預ける以上、この病院にこの医師にこの看護師にまたお願いしたいと思えるかは重要だ。
そもそも志を持って職業選択をするということがナンセンスな時代なのかもしれない。
成績が良かったから医療従事者になっただけって人の方が多いのかもしれない。志はあっても頭悪りぃ私なんかが異議を唱えられるものではない。
あるいはセカンドオピニオンを取りたいって言えば受診できただろうか。もしくはPCR陽性であることを隠して検査を受けに行くとか。正直に話したが故に医療を受けられなくなるのは納得がいかなかったが、リソースは有限であるし。
お給料がいいからという理由だけで職業を選べなかった。そういう価値基準が存在することは理解した上で、でもやりたくないことをやっていると離人症状に苛まれて使い物にならなくなる。
私はがん研の生き字引みたいな元看護助手に仕事というものを教わったんだけど、彼女の言う仕事とは井原西鶴的な商いだと思う。稼ぎとか勤めでしか考えてなかったけどこの国には商道という言葉があったんだなあ。
何にせよ、病院がいらなくなる未来は理想だ。
だってそれは、「他者の健康に責任を持つ女性としてすべての人がふるまうことができている」ということだろう。
あと300年くらいしたらそんな時が来るかもしれない。
泣くほど医療従事者になりたくて、でもなれなくて。
やっとなれた医療関連職で、ご利用者様からブルーインパルスの飛行機雲の写メを見せられたときの気持ち、わかってたまるか。
愛する人を抱きしめられない病気なんてね。
マスクって自分がかからないためじゃなくて、無症状のキャリアだった場合に他人に感染さないためにつけるって認識であってるのかな?
だとするとマスクをしていない人は自分がかかっても構わないと思っているのではなく、誰がどうなろうと知ったこっちゃないって感覚なのだろうか。
新約「償い」じゃないけど、私は私がキャリアとなって誰かを感染させるの、怖いよ。