見出し画像

ぼくがデジタルタトゥーアーティストになったワケ

 SNSの使い方に正解というものがあるとは思わないが日々思考錯誤している。
 機能として公式がそういう運用が可能な状態を是としている時点で、私個人が異議を唱えても「イヤなら使わなきゃいい」だけなのだが。
 いわゆる「voice or exit」というやつで、参加者権限しか持たない私が管理者権限である退出要求はできないから、あくまで改善要求をするしかない。

 ツイ消しやアカ消し、アカウントの使い分けというものに無性に抵抗があるんだ。そのことを周りの若い衆に伝えてもなかなか共感は得られない。我ながら老害になってきたなと思う。
 見たくないものを見ないゾーニングは必要な一方で、クラスタの一線を越えて外の世界の存在を知らないでいるとタコツボ化してエコーチェンバーを起こすじゃんか。それは世代とか老成とは別の問題な気がするんだ。
 クラスタや文化の違いを知ることは、「みんな違ってみんないい」というより多様であるという諦観だから、言い換えれば多様性への免疫作りだ。
 いいねや引用が必ずしも同意の意味を表さないというのはともかく、「威嚇ふぁぼ」とか言い出すと穏やかなSNSライフは遠のく。
広告はバンバン出てくるし、フォローしてる人がいいねした投稿まで表示されてた辺りからおかしくなってきた。私は引用投稿を非表示にしている人にもいいねは見せることができたので、内心で「無敵貫通」と呼んでいた。

 人格の多面さを窺い知ることができるのも SNSの魅力だと思っている。
 その意味で話題ごとにアカウントと人格を使い分けることができる人は器用だと思う。私だったら統合しきれなくなって失調する。それとも能動的に使い分けているのではなく自然に切り替わるのだろうか。平野啓一郎の分人主義みたいに。
 ツイ消しやアカ消しに関しては品がないと思っている。一目でも投稿を見てしまえば、その投稿は見た人の心の一部を占める。テキストベースのパソコン通信の時代じゃないから、アップロードされた情報の貴重さは相対的に下がっただろうな。どんな人工物も創作物も、長い目で見れば公共財だと思っているからかもしれない。昭和生まれらしいもったいない精神だ。

「一郎小沢作っては解党」とはよく言ったもので、アカウントを作っては消してまた作っている人を見ると悲しくなる。web上に公開してしまった時点、もう自分だけのものではなくなっているのではないか。少なくとも私はそう思っているのだろう。
 故に私は自分のことをデジタルタトゥーアーティストと自称しているのかな。なんかミスっても上達可能性はあるし、他人の未熟さを許容できないのは自身の未熟さ故でしょう。

 マスクとか咀嚼音とかハンズフリー通話とかツイ消しとか複数アカウントとかもそうだけど、主流やべき論とはぐれるとつらい。子どもをもうけるとか結婚するとかもそうだけど、選択は時に、選ばなかった方を選んだ人たちを非難する色を帯びる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?