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ギヨーム・ブラック監督『宝島』をみたわ。

なぜ人は、人と人との間に境界線を設けようとするのだろうか。
そんなことを言う自分自身も、無意識のうちにそうしているのだろうけれど。


ギヨーム・ブラック監督のドキュメンタリー映画『宝島』を観に、渋谷ユーロスペースへ。
8月も後半に差し掛かったが、依然として陽射しが痛い。

『宝島』のポスター。ギヨームブラック監督の映画は
ポスターデザインもゆるくて素敵だ。

ギヨーム・ブラック監督を知ったのは一昨年2022年(多分)。同館にて『みんなのヴァカンス』が上映された。
いかにもフランスらしい気怠いヴァカンスの空気と、これといってストーリー性のない展開が好みでハマってしまった。
それ以降は私の中ではギヨームブラック=夏という認識。
映画館のカウンターでそわそわしながら『女っ気なし』のDVDも購入した。
フランスのヴァカンス映画はもともと好きだけれど、ギヨームブラック監督の映画は登場人物一人一人への光の当て方が柔らかく、全身の無駄な力をフニャッと緩ませてくれる心地よさがある。

今回観た『宝島』は、パリにあるレジャーアイランドの夏を撮影したドキュメンタリー映画。
特に何が起こるでもなく、夏が始まり老若男女が思い思いの時間を過ごし、スタッフは繁忙期の仕事を淡々とこなし、スコールとともに夏が去ってゆく。
ただそれだけのかけがえの無い一夏を、1時間半に眩しく収めた作品だ。
途中少しウトウトしてしまったけれど、子供たちのキラキラした瞳や女の子たちの素敵なビキニ姿、男の子のギラギラした笑顔、そして何歳になっても夏を全身で感じる生命力
そんなどれもが魅力的で羨ましく映った。


映画を観終わって、地下鉄で数駅離れたコーヒーショップへ行った。
こぢんまりとした店内、会話は小声でとのことだけれど、店内の静かさにより近くの親子の会話がよく聞こえてしまう。
中学二年生くらいの女の子とお母さん(だいぶ若々しい格好をしていた)の会話
「〇〇ちゃんは“頑張れる”タイプの子でしょ、△△ちゃんはあまり“頑張れる”子ではないでしょ。あなたは〇〇ちゃん側になりなさい」
と、お母さん。
娘さんは周りの子達と自分を比べ、学業や進路のことで悩んでいるようだった。(そりゃ一番悩む時期だわな)
映画を見た後だからか、そういった些細な会話が妙に引っかかり、思考に入り込んで来る。

頑張れる人と、頑張れない人
信念のある人、ない人
意識高い系
才能のある人、凡人
・・・
無意識に人と人、自分と人との間に何らかの境界線を作ってしまう。
その線は果たして必要だろうか。
それぞれが主観で物事や人を見ている限り、その境界は自身と外側を分ける一つのみ確かで、それ以外はぼんやりと想像上のものでしかないように感じる。
自分から見えている面が「そういう人」なだけで、他の人から他の角度で見たらそうでないかもしれない。
そんな当たり前でありつつも難しい意識を、映画の後のふわふわとした感性で改めて考えさせられたエピソード。

私自身かつて、互いに好意的に思っていた人から“境界線を引かれてしまった”と思ったことがある。
(あるいは、引いたのは私の方だったのだろうか)
きっかけはとても些細なことや、お互いの勘違いによるものだと思う。
その時のなんだか勿体無いような、寂しくむごい心の澱を感覚的に思い出してしまった。

フランスのヴァカンス映画を観ていると、そういった境界線を感じることが少ない。
夏のせいなのか、フランスというお国柄なのか。
大人、子供、老人、若者、太っている人、痩せている人、働いている人、休んでいる人・・・
男女の境界線だけが、真夏の空と雲のようにくっきりと鮮やかに描かれている。

夏らしいことを一切せずに終わりゆく私の夏。
境界線がプールに溶け込む『宝島』から、懐かしい眩しさと、引き返せない何かへの切ない心残りを
プール帰りの塩素の残り香のように持ち帰った。


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