あんときのフィルムカメラ ウィトゲンシュタイン、最初の一歩 Canon Eos Kiss 初代 + EF28-105mm F3.5-5.6 IV USM
ウィトゲンシュタイン、はじめの一歩
言い方はよくないのだけれども、本屋や図書館で期待せずに手にした一冊が、実は、震えるほど面白い本だったことってありますよね。そういう逸書を僕は、
あたりの本
と呼んでいますが、先日読み終えた中村昇さんの『ウィトゲンシュタイン、最初の一歩』(亜紀書房)は、久しぶりの僕にとっての「あたりの本」となりました。
ただ思い返せば、だいぶ前に読んだ、そしてそれを面白く読んだ『落語 哲学』(亜紀書房)の著者と同一人物でしたから(ウィトゲンシュタイン本を読んでいるときには、同じ著者だと接続されていなかったのですが)、面白いのは当たり前ですよね(汗
さて、本書は、「高校の頃の自分に向けて書いた」優れた、そしてわかりやすい、20世紀最大の思想家ウィトゲンシュタイン哲学の入門書です。
日常生活の疑問や不思議を素材にしながら、ウィトゲンシュタインの思考を追体験できる一冊でおすすめです。
誰が考えても、どの時代でも、「嘘をつくのは悪い」ということになるとウィトゲンシュタインは言います。ここにウィトゲンシュタインは、倫理の本質を見ています。倫理は、相対的に決まるのではなく、絶対的なものであり、状況や時代や人によって変わるものではない、これが倫理なのです。
そしてウィトゲンシュタインは、こういった「倫理」の本質を表すような経験をいくつかあげます。それは、「絶対的なもの」の経験です。一つは、「世界の存在に驚く」というもの、別の言い方をすれば、「何かが存在するとは、どんなに異常なことだろうか」というものです。このような感情を抱くとき、われわれは「絶対的な」領域と深く結びつくと、ウィトゲンシュタインは言います。そしてこの領域は「倫理」と同じ領域だと言うのです。
(出典)中村昇『ウィトゲンシュタイン、はじめの一歩』亜紀書房、2021年、41-42頁。
言葉で表すことができるというのは、「相対的」
さて、著者によれば、ウィトゲンシュタインは、倫理の核をなす「絶対的な」領域と対照する領域として「言葉で表すことができるもの」を取り上げています。
例えば、「この花は美しい」と言葉で表す限り、必ず「この花は美しくない」という言葉が召喚されてしまいます。
そういう意味で、言葉で表すことができるというのは、「相対的」なのです。つまり、他の多くの異なる表現の関係のなかに入っているということになります。どんな文でも、どんな語でも、かならずその背景に他の文や語との無数のかかわりが潜んでいると言えるでしょう。これがウィトゲンシュタインが「絶対的なもの」と言葉とを比較するときに考えている「相対的なもの」ではないでしょうか。
(出典)中村昇、前掲書45-46頁。
言葉で表象することは、対象を特定するという意味では、何か絶対的な意義を持つようにも思われますが、言葉は関係世界のなかで対置されるものである以上、つねに「相対的」にならざるを得ないと聞くと、確かにそう思われます。
常に文脈に依存してしまうわけですからね。
この議論を参照すると、写真や動画に関しても同じような二律背反が実在するのではないかと僕は考えています。
カメラ・オブスクラの登場、あるいは絵画から写真への変化という現象に注目する時、画風や作風と異なる写真は、カメラによって光景が機械的に切り取られるという意味で、ひとが対象をみたそのままのように光景をトレースするように思いがちです。
たしかに、写真の登場によって、いち早く消滅したのは肖像画といいます。ひとりの画家によって描かれる営為は日数も費用もかかり、それはあくまでも絵画という限界があります。
それに日数も費用もセーブしながら、しかも正確に光景を機械的に切り取る写真の登場は、光景をコピーするという意味では、より正確な対象の反復、あるいはトレースのように感じられます。
しかし、言葉と同じで、実はこちらも撮影の文脈に必然的に依存してしまうという意味では、相対的にならざるを得ないという寸法です。
写真は一面では絵画よりも確かに対象を正確に切り取ります。しかし写真を撮っていればよくわかりますが、仕上がってくる写真は、必ずレンズの明るさとシャッタースピードによって千変万化するのがその実情です。
こうした意味で写真というのは撮り手の意図に依存する相対的な営みとなりますが、それは取りも直さず、撮り手が自由に作画をコントロールできるということをも意味します。
カメラ撮影のハードールを下げたフルオートフォーカス
そして、そのコントロールという手間を自ら調節するのが写真撮影の醍醐味でもありますが、それは同時に、初心者にとっては撮影の難しさをも意味するものともなります。だからこそオートマチックに撮影できるカメラの登場というのは、ある意味では
画期的!
ではなかったかと僕は考えています。
そうしたオートマチックに撮影できるフィルム一眼レフカメラの代表といえば、一体、何でしょうか?
思うに、それは、1993年に登場したキヤノンの初代Eos kiss じゃないか知らんと僕は考えています。
1990年代初頭のカメラ使用を振り返ると、メインで使っていたのは、ライカのM2,M3とIIIf、メディアの仕事で使用していたのがEOS620だったかと記憶しています。620とKissにはもちろん違いもありますが、マニュアルのカメラばかり使用していた身としては、オートフォーカスで撮影できる(そして僕はこれを使うときはほとんどプログラムオートで撮影していましたが)EOSシステムと、そのカメラを使うハードールがものすごく下がったことに、驚いた記憶があります。
それを一般世間に拡大することに貢献したのが、Kissシリーズではなかろうかと理解していますが、今回はデフォルトのキットレンズが故障していましたので、1996年発売の標準望遠レンズ EF28-105mm F3.5-5.6 IV USM を装着して撮影を楽しんでみました。
撮影は基本的にはスマートフォンの露出計で露出を決めたマニュアル撮影で、ピント合わせだけはオートフォーカスの機能を利用して撮影してみました。
撮影感としては、液晶を見ながらコントロールダイヤルで絞りとシャッタースピードを決定するのですが、これが意外と使いやすくてびっくりしました。
オートフォーカスのレスポンスも快調で、この手のカメラに関しては、ニコンに比べるとキヤノンには一日の長があるのではないかとの思ったりです。
さて、以下、拙い写真ですが、作例です。なお、特記のない限り、広角端28mmで撮影しています。僕としては、そしてこの連載では初めてのズームレンズの使用となります。
↑ f3.5、1/30
↑11、1/500
↑ F11、1/500
↑ 105mm望遠端で撮影 f8、1/350
↑ f11、1/500
↑ 105mm望遠端で撮影、f11、1/500
↑ f4、1/2000
↑ f5,6、1/250
↑ f22、1/125
↑ f4、1/1000
↑ f16、1/125
↑ f16、1/60
↑ f4、1/250
↑ f4、1/125
↑ f5.6、1/500
↑ f5.6、1/1000
↑ f5.6、1/1000
↑ f3.5、1/30
↑ f3.5、1/30
↑ f3.5、1/30
↑ f3.5、1/30
↑ f3.5、1/30
↑ f5.6、1/1000
↑ f5.6、1/500
↑ f5.6、1/2000
↑ f5.6、1/60
↑ f5.6、1/60
↑ f4、1/1000
↑ f8、1/500
↑ f11、1/250
↑ f4、1/250
↑ f4、1/15
↑ f4、1/250
撮影は2021年7月1日から9月5日にかけて。フィルムはKodakのネガフィルム「Pro Image 100(プロイメージ100)」を使用。香川県仲多度郡多度津町、三豊市、善通寺市、坂出市で撮影しました。蝉の声で始まる初夏から夏の終りの2ヶ月の瀬戸内の情景をスケッチしましたがいかがでしょうか。