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一日一頁:岩田靖夫『いま哲学とは何か』岩波新書、2008年。
通念では否定的な見方あるいは印象というもののなかに実は、積極的な意義を再発見するのが哲学的な知的格闘の醍醐味ではなかろうか。
古代ギリシア哲学研究者の見事な現代批評が伝えるのは、こうした営為がなければ、世界には「かけがえのない者」などたやすく存在し得なくなるだろうし、現在進行形でもそうである。
もしも、人間が性質の集合体ならば、個体などというものは存在しえない。「かけがえのない者」などは存在しえない。すべての人は多かれ少なかれ同質の構成物であり、したがって、代替可能な労働力であり、自動車のように故障すれば部品を交換しながら暫くのあいだ走り、やがて修理不能になれば、中古車が廃車されるように、廃棄可能になる物にすぎない。それが、人間の全体化であり、その全体化を現実に実行したのが、老人と病人と子供を役に立たない者としてガス室に直行させた、ナチスの強制収容所であった。
それゆえ、人間が「かけがえのない唯一者」であるということは、人間が対象化できず、認識できない、ということと同義なのである。
このことは、次のように考えてみれば、さらによく分かる。私が、ある他者と関わりを持つとする。その人が私にとって他者である限り、その人はいつでも私に「否」と言いうるのでなければならない。そうではなく、その人がいつも私の思い通りに動くとすれば、その人は他者ではなくて、私の道具であり、私の奴隷であり、私の一部分なのである。仮に、私がその人の弱点も長所もすべてを知り尽くし、その人を巧みに操縦しえたとしても、その人が他者であるならば、その人はそういう操縦可能性(認識)の「かなた」にいるのでなければならない。この意味で、私と他者との間には、絶対の断絶が存在する。断絶が存在するから、人間は他者なのであり、犯すべからざる尊厳をもつのである。
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