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一日一頁:マーク・クーケルバーク、田畑暁生訳『ロボット倫理学』青土社、2024年。
西洋近代の人間中心主義としての人間中心ではなく、「人間でなければ答えを出せない」課題に対しては人間として真摯に対応していくのが論理ではあるまいか。
「小さな」問いに導かれて「大きな」問いに関わることが求められている。
もう一度言うが、ロボット倫理学はロボットや機械、人工物にだけ関わるのではない。それは人間にまつわる「大きな」問いに関わり、さらに必要であれば、またはできる限り、思考・倫理において人間を超えることに関わり、いずれにしても、人間についての大きな問いは、人間でなければ答えを出せない。ロボットはこれらの問いを考える際の道具や鏡として、手助けはしてくれるかもしれないが。これまでも見てきたようにこの鏡はいくつもの異なった像を映し出している。しかし最終的には私たち人間が、人間として、社会として、この惑星の人間性の向かうべき方向を、解釈し、創造し、議論し、決定しなくてはならない。言い換えると、私たち人間はロボットについて考えなくてはならないが、それだけではなく、ロボットやロボット学、ロボットと人間の関係が提起するような、間違いなくより重要な問題を考えなくてはならないのだ。この思考は機械に任せることはできないし、任せるべきではない。倫理的にも政治的にも、少なくともトランスヒューマニズムやポストニューマニズムが批判するような意味合いにおいて、ヒューマニズムは問題含みかもしれない。しかしながら認識論的には、それが意味を持つのは、私たちがロボットやロボット倫理や他の問題を考える際に、人間や人間の主観性を経由しなくてはならないと認識している時のみである。私たちが単に鏡を「使用」しているだけでなく、私たちは鏡の反射の一部なのである。
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