
一日一頁:マイケル・ケリガン、廣幡晴菜、酒井章文訳『図説死の文化史』原書房、2020年。
死に対する表象は図説が示す通り時代や地域によって千差万別だが、その千差万別を学ぶことで自己の死に対する認識を更新することが初めて可能になるし、更新点検がなければ、現象が人間を規定する陥穽を避けなければならない。
なぜなら「すでに存在する現実が言葉によって表されるわけではなく、むしろ、文化が世界をどう表すかによって『実際の』あり方が定まる」からだ。
こうした変化はテクノロジーの利用によって起きたのかもしれない。しかし、変化が起きたときには、世界はすでにその準備ができていた。文学理論の研究者や哲学者は何十年も、言語で表される「客観的な」現実に対する言語の優位性について議論を重ねてきた。彼らが言うには、すでに存在する現実が言葉によって表されるわけではなく、むしろ、文化が世界をどう表すかによって「実際の」あり方が定まるという。さらにいえば、それぞれの人のもつ「自己」が文化を構成し、「内的な」自己や魂など存在しない。我々を生み出した社会や文化を、我々が超越すると感じるかもしれないが、実際のところ、人間の生活も意識も存在も思考も感情も、社会や文化によって賦活されている。このように、本当は人間が中心ではないことを、我々個人は受け入れないかもしれない。だが間違いなく社会は、人間が中心ではないように振る舞う傾向がある。この感覚がメディアにおいて自明になるずっと前から、状況は明らかになっていた。人々が自分の遺体をどうしたいと思っていたか、そのために下した決断をみればわかる。
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