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一日一頁:津野海太郎『生きるための読書』新潮社、2024年。
伝説の編集者、文筆家の最新の読書エッセイを読了しながら、思いを共有する。たしかに「かたい本」を読まなければならない側面は否定しがたいが、もはやかたい・やわらかいの二項対立ではなく「生きるための読書」という第3の道が新しい読書として現れ始めていることを祝したい。
たしかに、ここ数年の自身の読書も「生きるための読書」になっている。
本を読む人間が減ったといっても、新しい小説や軽めのエッセイ、あるいはマンガーつまりは「やわらかい本」を読む者の数は、いまも減ってない。むしろ増えているといってもいいだろう。ところがそれに反して、重い小説や評論や哲学や歴史などの「かたい本」を読む人間の数が、あっけにとられるほどの速度で減っている。大学に行こうと行くまいと、私の世代の「読書する人間」は、「やわらかい本」だけでなく、程度の差はあれ「かたい本」を読むことにも慣れていた。とうぜん私もね。そして、その分だけ、いまの社会で「かたい本」の存在感が薄れつつあることを残念に感じてしまうのです。
とまあ、いったんは、そう思っていたのですよ。でもこの連載をつづけるうちに、こうした変化の一方で、ますます息苦しくなる世界に押し潰されずにいるための読書ーーつまりは「生きるための読書」とでもいうべき新しい習慣が定着しはじめていることに気づいた。しかもこの習慣は、すでに指摘した「書斎や研究室で本を読むだけでなく、生活の場で、じぶんの心身を柔軟に使って考える研究者が増えてきた」という現象と、対をなしているらしい。
いいかえれば、本を書く者と読む者とのあいだに、これまでとはちがう性質の対話が生まれ、私たちの社会と文化のありようが変化しはじめた。その気配が感じられる。
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