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一日一頁:宮台真司『14歳からの社会学 』世界文化社、2008年。
「<世界>ってこんな感じなんだ」
っていう社会、あるいは関係世界に対するちょっと違和感@松尾隆史っていうものがないと、謙虚に自分や他者を見つめ直すってことは不可能なんですよね。
それを促すのが学問の役割。「『ああ、これが<世界>なのか』なんて、いちいち確か」めなおしてみようぜ。
開高健はベトナム戦争のとき、新聞社の臨時特派員で従軍記者をしていたんだけれど、最前線に出た際に反政府ゲリラ軍の機銃掃射にあって、部隊総勢200名中わずか17名の1人として生躍する経験をしている。
後のインタビュー映像があった。当時を回想して「解放されて、ホテルにもどってベッドに倒れこんだあとベッドをたたいて『オレは生きている』と思った」というようなことをいっていた。この感想は「生きててよかった」というのとちょっと違うと思う。
ぼくの経験では、「生きてるっていうのはこんな感じなんだ。<世界>ってこんな感じなんだ」というふうに見慣れたベッドをたたいてみたり、「自分の手ってこんなふうになっているのか」というふうに確かめたりする。
そんな感覚に近いんじゃないかと思う。
ただそうやって、いっときは確かに<世界>に直接ふれられていたのに、しばらくすると、なぜか<社会>にもどってしまう。コミュニケーションの中の存在になってしまう。<社会>の中では、つまりコミュニケーションの中では、当たり前なものごとが決まっている。
ベッドはベッド。手は手。当たり前すぎて気に留める必要がないものたち。そうやって気に留めないで済むから、ぼくたちはどんどんコミュニケーションできるんだ。
「ああ、これが<世界>なのか」なんて、いちいち確かめていたら、コミュニケーションできないだろう。
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