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玉子を触る体験

#仕事について話そう

日頃はデイサービスでお年寄りさんの自立支援のお手伝いをしております。


体操や機能回復訓練は看護師チームの方が中心となって取り組んで頂いておりますが、僕自身もレクリエーションや回想法を活用したその人らしい生活づくりに挑戦しております。


先日は、デイの利用ではなく、高齢者通いの場として音楽会に町内の方が参加してくれたのですが、


(どうも僕を見ると息子さんを思い出されるようなので、そしてその息子さんとの思い出が息子さんのお菓子作りの思い出でしたので)


「今日はパウンドケーキを作ってお待ちしますよ!」


と言ったはいいものの、


玉子が全くなかったので、別の事業所へ戻ったわけです。


玉子が到着したとき、

哲学的直観の出番です

「ひょっとしたら」という哲学的直観(直感ではなく)で、利用者さまに玉子を見せたところ、どんぴしゃりとなりました。


玉子を触って頂いたのですが、「玉子を触るのも数年ぶり」と仰られる方がやはり多く、独居が続いたり、家人がお手伝いをすればするほど、


「玉子を触るのも数年ぶり」になってしまうので、「玉子を触るのも」いい機会となり、そこから玉子の話で花が咲くという流れです。


僕たちが「だいたいそういうものだろう」と思っていることって、だいたい該当するのは「僕たち」だけであって、そうではないことの方が多いのが実際かも知れません。


たかが玉子、されど玉子とはこのことではないでしょうか?


さて……。

作家アンドレ・ブルトンは『シュルレアリスム宣言』のなかで次のような言葉を書き綴っています。

自由というただひとつの言葉だけが、いまも私をふるいたたせるすべてである。思うにこの言葉こそ、古くからの人間の熱狂をいつまでも持続させるにふさわしいものなのだ。

(出典)アンドレ・ブルトン(巖谷國士訳)『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』岩波文庫、1992年、9頁。

哲学では独りよがりな思い込みをドクサ(臆見)と呼びますが、臆見からどれだけ自由になれるか努力することは、これ、ひとえに哲学者だけの課題ではないですよね。


僕はそう考えています。



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氏家 法雄 ujike.norio
氏家法雄/独立研究者(組織神学/宗教学)。最近、地域再生の仕事にデビューしました。

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