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一日一頁:隅研吾『日本の建築』岩波新書、2023年。
建築に限らない話だが、正統的で厳かな遺物を並べて神聖視することが通史を描くことになろうか。建物ひとつとってもそれは生きた人間が利用するから建物である。その如何わしさに争うからこそ執筆に8年かかったという。
哲学史を叙述するにしても然りである。自分自身に向けて。
どの時代、どの立場から眺めるかで、日本建築という過ぎ去ってしまったはずの過去が、まったく違った姿、違った魏で立ち現れる。日本建築は、僕らの生きるこの日常を様々に映し続けている鏡なのである。すなわち建築家たちが日本建築をどう捉え、どう表現したかに注目すると、その時代の特質、その建築家の置かれた立場がよく見えてくる。日本建築をひとつの鏡として記述すること!それは僕が生きてきた日々を映す鏡としての日本建築論であり、僕より少し前の日々を生きた先輩、大先輩の建築家が日本をどう捉えたかを通じて描く、ひとつの日本論である。そうすることで、日本建築が一種のナマモノとして浮き上がるのを感じた。ナマモノであるとは、社会的・政治的・経済的な存在として日本建築を再発見することである。
ナマモノとしての日本建築論の対極にあるのは、ご先祖様のようにありがたく、犯しがたい過去として日本建築を記述する方法である。
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