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【7】ちょっとまじめな古代史の話-1   「大和」と書いてなんと読む? 2022.5.7

1 「大和」と書いてなんと読む?
もちろん、いうまでもなく「ヤマト」ですよね。
今の日本人で大和をヤマトと読めない人はいません。
学校でこれをダイワと読んだりしたらクラス中の笑いものになるのは必至です。
だけど今一度素直に考えた時、どうして大和がヤマトと読めるのですか?
Q1:大はなんと読むのですか?ヤですか、ヤマですか?
Q2:和はなんと読むのですか?マトですか、トですか?
Q3:どちらの文字も大和以外でそのような読み方をする例がありますか? 

辞書を見ればわかりますがそんな読み方をする例はどこにもありません。「大和」は古くは「大倭」と書かれていました。和と倭は同じワであり同じ意味の文字だということで「大倭」と書いても同じくヤマトと読まれます。けれどこの場合も問題は変わらず、どう読めば大倭がヤマトになるのか説明はつきません。
 実は、奇妙なのは、「倭」という文字です。この文字は音と訓があり、音読みではワかイですが、訓では「ヤマト」という読みがあるのです。
 ということは、倭1文字でもヤマトであり、大倭の2文字でもヤマトと読むのだということになります。これはどういうことでしょう? そうだとしたら大の文字は何の意味があるのでしょう。
 大和と書いてヤマトと読む、根拠なんて知らない、そう教えられたからそう読んでいるだけ、それが実態なのではないでしょうか。
 私も同じでした。でもあるときふと思ったのです。
  ダイワと読むのが本当じゃないのか?
と。
  ダイワと読んだら何が変わるのか?
それを考え始めたら、話は意外なほどに拡がって行くのでした。

2 倭国と書いたら何と読む?
 
倭に国を付けて「倭国」としたならどう読めるでしょうか?
 素直に読んだら、いうまでもなくワコクです。そして倭国といったらもちろん魏志倭人伝の倭国の女王卑弥呼が住む邪馬台国のある「倭国」を指すということになるのが理の当然ということになります。
 そうしたら大倭国と書いたら何と読むのでしょう。素直に読んだらダイワコクと読むしかなく、その意味は大きな倭国であるとしか考えようはないのではないでしょうか。

3 ヤマトは地名だ:ヤマトの地なるダイワ国なのだ!
 
ではなぜ大和と書いてヤマトと読むのでしょう。ヒントはヤマトというのは地名だということです。
 すなわち「ダイワ国はヤマトの地にあるのだ」と言っていることになります。
 それではヤマトとは何か、ウィキペディアをみると、「ヤマトは山門とか山跡が語源であり、山のふもととか山に囲まれた地域などの地形を表す言葉だと考えられている。そしてヤマトの国の領域は元々はヤマト王権の本拠地であった奈良盆地の東南地域を指すものであり、後世王権の支配領域が日本列島全域に及ぶに至り日本国全体の別称としてヤマトが使用されるようになった。」とあります。
 奈良盆地の領域は、地形的にもヤマトという呼称に合っており、ヤマトを奈良盆地とするウィキの記載は妥当と感じられます。

4 倭国は畿内にあったの?
 
ダイワ国がヤマトにあるということは、畿内説と九州説とが対立していまだ決着していない倭国の中心である邪馬台国もヤマトに有った、すなわち畿内説が正しかったということになるのでしょうか?
 答えは否です。ダイワ国という書き方は倭国より大きい大倭国なのだと言っているのであり、倭国と大倭国はちがうぞといっているからです。

5 神武天皇と長髄彦の正統争い:神武東征とは
 
奈良盆地にヤマト王朝を打ち立てた神武天皇は、これもウィキによると、古老が語る「東方に奈良盆地、ヤマト国という美しい地があり、この地こそ都をつくり天下を治めるのに適した場所です」という話を聞いて東征を決意し、九州の筑紫を出立して東に向かった。そして散々苦労した挙句に奈良の地を支配していた長髄彦を誅殺して橿原の地に宮殿をつくり初代天皇として即位した、とあります。
 この記事の中で興味深かったのは神武天皇と長髄彦の正統争いです。長髄彦が神武天皇に「私の祖はこの地に降臨した天つ神である、天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか。」と言っていたという挿話です。二人はお互いに伝来の神器を見せ合い、どちらも本物だと認め首をかしげたというのです。
 ということは長髄彦自体も神武天皇と同族で奈良の地を侵略して支配した前代の東征者だったのでしょうか? 古事記や日本書紀、風土記などの伝承を、もう一回読み直さねばならなくなってきました。

 銅鐸というものがあります。これについて見てみると、「これは三輪氏系部族と物部氏系部族の政治連合体において象徴的に用いられたとする説があり、これらは神武東征の影響によって崩壊し、畿内の中心地域から弥生時代後期に銅鐸が消えたとされる」という記載がありました。銅鐸は鐘のようなもので要するに楽器です。畿内のヤマトの地で楽器を鳴らして歌ったり踊ったりしていた人たちが大量の銅剣、銅矛を振りかざして突然襲い来たった人たちの前にはひとたまりもなく敗れ去った。神武天皇個人の存在を否定する人も多くいるようですが、その場合でも九州の勢力がヤマトに攻め上ったという大筋は変わらない、東征というのはそういうことなのだろうと、そう思うのです。

6 神武天皇は筑紫を出立したということの意味
 
このような話から分かるのは、神武天皇達の本拠地は九州筑紫にあったということ、その神武天皇が奈良盆地を征服し倭国を名乗ったということです。これはつまり自分は天つ神の国である筑紫倭国の後裔、神の子なのであると自身の支配の正統性を訴えているのであり、九州の本家の権威を借りているのだということです。
 したがって、九州の本家こそが倭人伝の謂う倭人の国「倭国」であり、そうなれば、倭国の中心地である邪馬台国も九州に有ったということは明らかなのではないでしょうか。そして後年ヤマトを大倭国と表記したのは、自分達の国はもはや本家倭国を越える大国になったのだと主張しているということではないかと思うのです。

7 分家は地名で呼ばれる
 
最初の質問に戻って、
 なぜ大倭国(ダイワコク)をヤマトとよぶのでしょうか?
 
この答えをもう一度整理してみると、前述のようにヤマトの国とは奈良盆地の領域を指す地名であったわけで、ヤマトはダイワコクの場所を示す地名であり、初めは筑紫の倭国と区別するために「ヤマトの倭国」、「ヤマトの地の倭国」だぞと言っていたのが後半を端折ってヤマトという地名のみで呼ぶようになったのではないかということです。
 このように、本家が大きくなって分家するようになると、みんな同じ氏だと区別がしにくいから住所で呼ぶようになるというような例はお分かりのように珍しいものではありません。我が家でも 目黒の叔父さんとか仙台の叔父さんとか住所で区別をしていましたし、大きな例では徳川御三家は「水戸家」「紀州家」「尾張家」など徳川を端折り地名で呼ばれるようになっています。
 そして、この場合重要なのが、本家は当然そのまま「徳川」と呼ばれ、分家の方が地名で呼ばれるというルールです。このルールからすると倭国の本家は九州、ヤマトという地名で呼ばれるダイワ国は分家であるという関係性は明らかです。
 というわけで、大和がなぜヤマトと読まれるのかに疑問を持って考察すると、畿内説は自動的に否定され、邪馬台国は九州に在ったのだという結論に導かれるというお話でした。

8 倭や大和を安易にヤマトと読んでしまうことの危険性
 
今回、色々 資料を 見て行くと、どの資料も「倭」や「大和」とあると何の疑いもせずに自動的にヤマトと変換して読んでしまっているのですが、これは予断に基づく思考停止で、九州の倭と奈良の倭をごっちゃにしていてそれが理解を妨げる誤解、混乱を生む原因になっているように感じました。
 実は先ほど掲げたウィキの記事ですが「大和は山門とか山跡が語源であり、山のふもととか山に囲まれた地域などの地形を表す言葉だと考えられている。そして大和の国の領域は元々は大和王権の本拠地であった奈良盆地の東南地域を指すものであり、後世王権の支配領域が日本列島全域に及ぶに至り日本国全体の別称として大和が使用されるようになった。」と書かれていて、奈良盆地のことであるヤマトという言葉に何の疑問もなく大和という文字を当てているのです。こうなってしまうと何がなんだか解らなくなる。そう思いませんか?
 筑紫にある本家倭国、奈良盆地に進出したヤマトの地の分家倭国、そして後年倭国を超えた大和国であると名乗ったダイワ国はきちんと区別して理解することが必要であり、そうしてこそ今まで見えなかったものがクリアに見えるようになる、そう思うのです。

9 補足:東征後の筑紫本家はどうなった?
 
ちなみに九州に倭国本家があったとしたら、神武東征後はどこに消えてしまったのか? 何も記録にのこっていないじゃないかという疑問が出てきます。
 記録が少ないのは、ヤマト王朝が意識的に本家のことを隠して最初から自分たちが正当だったという形に歴史を作り変えた(記紀が編纂されたのはそれが目的だった)ために記録がほとんどなくなっていると考えれば説明がつくのですが、すべての痕跡を消し切れたわけではなく、面白い話があって、中国のある史書には九州側とヤマト側の両方の大使が同時に中国に来て、こちらこそが日本の正統だと言い争ったので中国側が扱いに困ってしまった、なんていう話が載っているのだそうです。
 さらに、九州の王家が東征後も強い勢力を保持し長く存続していたと思われることは古事記や風土記などに断片的に残っているのです。
 考えてみれば倭国の王朝の正統な後継者ではない傍流の神武天皇の一族が東征したからと言って、倭国全体が筑紫を引き払って引っ越しをしたわけでは無いのですから、本家が安泰で大きな力を保持し続けたことは当たり前なのです。
 有名な「磐井の乱」は527年に起きており、「ヤマト王朝が九州の豪族である筑紫の磐井が天皇の命令に従わず無礼な振る舞いが多かったのでこれを討った」とされていますが、古事記や筑紫風土記では「筑紫君磐井」と書き、磐井を「君」と尊称しているのです。磐井は単なる地方豪族などではなく筑紫の王であったのではないかとも考えられ、もしかすると話は逆で、本家に対し力を付けてきた分家ヤマトの反乱だったと解釈すべきなのかもしれないのです。それにこのときヤマトは筑紫を完全に滅ぼしてはおらず、ヤマトと筑紫のどちらかの生き残りをかけた全面衝突であったわけではなかったようで、この「乱」の意味と決着がどうなったのかは詳しい記載がなくよくわからないというのが本当の所のように思われます。
 というのは、こんなことが有ったにしては、以下に述べるように、その後も元々同族である両者の同盟関係は断たれたわけではなく連綿と続いていたようなのです。

10 「白村江の戦い」
 
本家倭国の終焉は、磐井の乱の136年後、663年に起きたあの「白村江の戦い」にあると言われます。
 このとき倭国は唐によって滅ぼされた同盟国百済の再興のために朝鮮半島に大軍を出して唐・新羅連合軍と戦ったのです。ということは、その時点でまだそれだけの力を保持していたといえるのです。
 しかし戦い利あらず、倭軍は、水軍、陸軍共に壊滅的な大敗を喫し「九州の豪族である筑紫君薩夜麻や重臣等が唐軍に捕らえられて、8年間も捕虜として唐に抑留されたのちに帰国を許された」という事態になるのです。
 先に述べたように筑紫君が本家倭国の王であったと考えると、倭国は王自身が捕虜になってしまうという大変なことになったのです。このとき倭国はヤマトに救援を頼み、ヤマトは九州までは来ますが結局救援は間に合わなかったのか唐との戦いに参戦はしなかったようです。

11 倭国とヤマト王朝の交代:「旧唐書の説明」
 
白村江の戦いの後、ヤマト王朝は「唐との友好関係樹立が模索されるとともに急速に国家体制が整備・改革され、天智天皇の時代には近江令法令群、天武天皇の代には最初の律令法とされる飛鳥浄御原令の制定が命じられるなど、律令国家の建設が急いで進み、倭国は「日本」へ国号を変えた。」とされます。
 ここで国号の変化と書かれていますが、これはヤマト王朝が国名を変えたというような内輪の話ではなく、筑紫の倭国本家がこの敗戦による大打撃で力を失ってしまった機に乗じ、打撃を受けることのなかったヤマト王朝がそれに取って代ったということを示しているのではないかと考えられるのです。
 その証拠が中国の旧唐書にあります。(ネットで調べるだけでこんな証拠が見つかってしまうのですから便利な時代になったものです。)
 『旧唐書』は945年に完成した歴史書です。
 その東夷伝において、日本列島について前半は「倭国伝」後半は「日本国伝」の2つに分けて記載されており、日本国については
「日本国は、倭国の別種なり。その国日辺(につぺん)に在るを以ての故に、日本を以て名となす。あるいは曰く、倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となす、と。あるいは云ふ、日本はもと小国なれども、倭国の地を併せたり」
と説明しているのです。
 そして「白村江の戦い」は、正に倭国伝から日本国伝に切り替わる空白期間に起きているのです。
 ヤマト王朝内で単にこっちの方がよいからと国名を変えたというのではなく、倭からヤマト王朝(日本国)に支配者が変わったのだということは明白であるように思えます。
 この併合が平和的に行われたのか、武力をもって行われたのかは記録がありませんが、ヤマトは倭国の窮地を援けようとした形跡はなく、その窮地に乗じて、いずれにしても有無を言わさず乗っ取ってしまったのだということは事実のように思われます。
 日本書紀の成立は720年です。663年の「白村江の戦い」から約60年、倭国本家を併合し東国にまで勢力を伸ばしたヤマト王朝が、もう倭国ではないと、旧倭国の影響を消すためにも日本と国名を変えたというのは有り得ることと思われます。別稿で書きたいと思っているのですが奈良時代のヤマト王朝の国力はすさまじいものがあります。

10 その後のヤマト王朝
 
その後ヤマト王朝は日本の代表として唐との友好関係を進めると同時に、唐と新羅の侵攻を警戒して九州沿岸には水城を造り 防人を配備するなど防衛体制の整備を緊急に進めており和戦両方に備える施策をとっています。当時のリアルな緊張と危機意識が伝わってきます。
 この頃の人たちの方が今の日本の政治家や言論人たちよりずっと危機感覚、国際感覚が鋭かったのではないかとそんなことを思ったりもするのです。

*あとがき*
 ちょこちょことまとめるつもりだったのですが、いい加減なことは書きたくないので、ネットで裏付けを探して見ると、面白い話が次々に出てきて話が拡がり、こんなに長くなってしまいました。
 机の上だけで足で稼がなくても、そうした資料を探すことのできるインターネットの世界というのは、もちろん汗をかいた先人がいらっしゃってこその知識の集積の賜物な訳ですが、そうしたものを簡単に利用できるというのは想像だにできなかった凄い時代になったものだと思います。
 最後まで読んでいただけた方有難うございます。お疲れ様でした。
 記紀などを読むと、ヤマト王朝が勢力を伸ばす過程ではだまし討ちをしたり綺麗ごとではない色々なことをしています。ただし私はそれを現代の倫理感覚で安易に批判することが正しいことだとは思いません。そうした時代を積み重ねて今の時代があり今の倫理感覚が形作られてきたのですから。
 ただしそうして作り上げられたものをぶち壊して武力侵略を正当化する時代に戻すことが許されてよい訳はありません。

 長文、読んでいただいて有難うございます。
 よかったら下の記事も読んでみてください。面白いですよ。

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*私がここで提示した論証には賛成する人も反対する人もいるでしょうし色々な意見を述べることが許されるのが健全な社会だと思います。
いずれにしてもここで記したことが何かの参考になればうれしく思います。 
賛否どちらの立場からでもかまいませんので色々教えていただけたらと思います。

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