エッセイ「悪は存在しない。そう言えるときが来るまで」
少し前、とある食事会で「悪は存在しない」という映画の話になった。
映画の内容を知らずに言うけれど、私はもとから「悪は存在しない」と思っている(もちろん「善」も)。もし存在するとすれば、じぶんの目から見たじぶんの世界においてだけ存在する、ということなのだろう。私が今、「正義」だとか「善」だとか「悪」だと思うことも、私以外の人や昨日の私や、そして明日の私にとってそうであるとはかぎらないから。
そして、よく耳にする「過去と他人は変えられない」という言葉についても考えてみる。「他人」についてはまた別の機会に語るとして、はたして「過去」は本当に変えられないのだろうか。
たしかに、過去に起こったその出来事自体を変えることはできないだろう。けれど、その出来事に対するじぶんの捉え方を変えることはできる。過去の出来事が持つその意味合いが変わるとき--たとえば自分にとって「悪」だと思った出来事に、わずかでも「善」ともいうべき“何か”を見出せたとしたら--、私たちは「過去を変えられた」と言えるのかもしれない。
私がこういう考え方を持つようになったのは、命よりも大切な娘との間を"引き裂かれる"という経験をしたからだ。どんなにもがいてもくつがえることのない理不尽な出来事を、私はただ生きてゆくために受け入れるしかなかった。私にとってこれ以上ない「悪」と、そして私自身と徹底的に対峙しながら、なんとかここまで生きてきたのだ。
私を助けるいくつかの言葉のひとつに、「人間万事塞翁が馬」がある。苦しみだけの日々を支えてくれたふたりの人から(しかも別々に)教わった、祈りのような言葉。教わった当時はその言葉すら受け入れられなかったけれど、少しずつ言葉に気持ちが追いついてきて、今では実感まで伴いはじめている。
私が「悪」とした過去を「善」として捉え直す日は来なくても、せめて受け入れることができたなら。今はまだ心がついていかないときも多いけれど、私はいつだって私が思う最善をつくしてきたはずだし、はじめから苦しもうと思って選んだ道ではない。じぶんの苦しみと向き合い、受け止めようと必死にもがく私を、ちゃんと認めよう。私を大切にしてくれる人たちとじぶん自身の声を聴き、私と娘にとっての「正義」に全力で愛を注ごう。来たるべきときに、未来はちゃんと来るのだから。今はただゆるやかに、あかるい気持ちで私を抱きしめていたいと思う。