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【旅日記】東京2024秋|7.上野 〈 不忍池 〉(完)

蓮の葉ゆらす風の中で


そしていよいよ、東京ラストデイ。最後の日は上野・不忍池へ。

若かりし日の2年間を過ごした東京で、わたしは夢にやぶれ、というか夢に挑むことすらできず、ただ無力感だけを引きずって地元へと戻った。「東京はわたしには合わなかった」。そういうことにして、夢からも離れて。

なんとなく後味の悪い東京生活だったけれど、いくつかの心の拠りどころはあったのだと思う。上野周辺はそんな場所のひとつで、訪れるとき、その目的はもっぱら詩人の立原道造さんの記念館に行くことだった。無縁坂を歩いて、そこに延びる道の右側と左側のずれみたいなものを感じたり、在りし日の文学青年たちに思いを馳せたり、時を越えて過去とつながるための場が、上野にはあった。

夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへつた午さがりの林道を

うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた
――そして私は
見て來たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……

夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう

のちのおもひに/立原道造

あれから20年以上が経ち、わたしはふたたび言葉と対峙するようになった。そして、その道すがらで出会った表現者の新しい歌が、上野の不忍池にゆかりを持つことを知った。歌のミュージック・ビデオには、不忍池に植った蓮の葉が、ぎゅうぎゅうになって映っていた。

誰かが祈ってる 朝方の夢のあと
そなう花は白い
ひとひらのレシートに 読み取れたやさしさを
辿って何処へ行くんだろう

きみのいる世界を「好き」って
ぼくは思っているよ
蓮の葉ゆらす風の中で

何度も通った上野だけれど、これまで不忍池に行く機会はなかった。ビデオの中で青々と、風に揺れる蓮の葉を見て、わたしもあの風を感じたいと思った。

上野駅の改札を抜け、外に出ると、辺りは渋谷に負けないほどたくさんの外国人であふれていた。いかにも、ザ・観光地という雰囲気。それでも一歩、公園に足を踏み入れば、木々の緑がつくる日陰のもとで憩い合う人々の姿があった。

わたしは持ってきた一眼レフを構えて、さまざまな瞬間を切り取った。歩いて、止まって、撮影。また歩いて、立ち止まって、撮影。上野動物園って公園内に入り口があるのか! 国立西洋美術館も同じ敷地内だったっけ? 知らなかったことをたくさん知った。

不忍池は、想像していたよりとても広かった。蓮の葉はそのほとんどが“かろうじて緑を留めています”といった具合で、枯れて茶色になっているものも多かった。おそらく夏のはじめに撮られたのであろうビデオの蓮とは、茎の長さも葉の大きさもまるで違った。きっと夏の間じゅう、皆を喜ばせてきたのだろうなあ。まだ少し夏の名残りを感じる陽光にじわっと汗をにじませて、シャッターを切る。広がりすぎた蓮の葉はお化けみたいな大きさで、あちらこちらを向いていた。その姿がこっけいに思えて、わたしの体もゆるむ。

公園から出て、すぐそばのホテルのカフェでお昼をとった。たっぷりの野菜とマスタードチキン。セットのドリンクは、やっぱりここでもホットコーヒー。
お腹が満たされると心も満ちてゆくなあ。たくさん歩いて疲れた全身が、熱とだるさを帯びている。体力の低下。けれど「生きているんだ」と思った。わたしは体を、もっと使おう。

さて、そろそろここを後にする時間。

カフェを出て、もう一度不忍池のほとりを歩き、駅へと急いだ。あ、そうだ。大切なことを思い出す。
わたしはバッグからイヤホンを取り出し、耳にはめてApple Musicの再生ボタンを押した。「カン、カン」! あかるいドラムのスティック音が響く。ドラムとサックス、エレキギターとウッドベース。そして続いた歌声。

誰かが祈ってる 朝方の夢のあと
そなう花 色とりどり

この頃の気分を奪ってみろよ
奪ってみろよ
この胸のうずめきを ほら

きみのいる世界を「好き」って
ぼくは思っているよ
昔とちがう風の中で

きみのいる世界を「好き」って
ぼくは思っているよ
蓮の葉ゆらす風の中で

ハチス/折坂悠太

音を耳に受けながら、ぐんぐん歩いた。爽やかな風が吹いている。頬に触れる風がやさしくて、少しくすぐったい。

わたしはもう一度、カメラを構えた。さっきまで夏のようだった陽光も、夕日に近づきやわらかくなっている。光に照らされた蓮の葉が、淡く影をうつす。いいぞ、いい感じ。雲に透ける太陽も、空におどる木々の葉も、遠くにそびえるビル群も、みなキラキラと輝いていた。

夢中になりかけるじぶんに気づいてハッとする。うかうかしていたら飛行機の時間に遅れてしまう! 大丈夫、また来よう。また来て、風になびく蓮の葉を撮ろう。景色から生まれる言葉をつかもう。いつでも東京はここにある。ありがとう、東京。ありがとう、音楽。ありがとう、わたし。ここに連れてきてくれた全てのものたちへ、どうもありがとう。

おしまい

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上野イクヨ
本の出版を目標に執筆を続けています📙📕📘よろしければお力をお貸しください🐆🦒🦓🦩🦚🌬️🫧