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【短編小説】揺らぎ

 ペダルのうえ、右脚を撥ね上げて左脚を仮の軸にする、そして次の瞬間、一挙にその関係を逆転させる。タイヤは勢いよく駆動し、クロスバイクはその役割を果たす。フードデリバリーの巨(おお)きなバッグを背負ったまま前傾姿勢をとり、正午の日の照りつける街中や車道の脇を走り抜けていく。自然の風はほとんどなく、自転車の運動によって発生する逆風のみが汗で体に張りついた半袖のシャツを乾かそうとしていた。

 マップアプリの音声案内は車の走る音にまぎれて聞こえない。正午近くの垂直に射す日光のせいで現在地すら視認できなかった。平吾へいごは減速しながら、車道の脇から舗道にのりあげて停車し、掌で影をつくりスマホの画面を確認する。土地勘に頼って走ってきたものの、その勘は間違っていなかった。あとは300mほど直進すれば、客の家に到着する。建物の名前と部屋番号だけを頭に入れて、また車道の脇に滑り込み駆けていった。

 配達が完了するとアプリの上部に
 675円
 と表示された。
 ちょうどそのとき次の注文が入った。近辺のマクドナルドから東池袋までの稼働で、900円。普段ならばすぐにスワイプして注文をとる案件だった。しかし平吾は躊躇した。時間を見た。十二時二十三分。彼が躊躇している間に注文はほかの配達員にとられてしまい、案件のポップアップは消滅した。
 平吾は業務終了のボタンをタップした。今日は一件、675円分の稼働しかしていないが、このあとの予定を考えるとしょうがなかった。もう一件やっていたらシャワーも浴びられずに、彼女と会うことになるだろう。彼はマップアプリを開き、すでに登録していた住所――椎名町の自分のマンションの住所――をタップした。アプリは青色の太い線で現在地からマンションまでの復路を表示した。比較的単純なルートだった。西武池袋線に沿って十五分ほど走ればよい。彼は駆け出した。

 土曜日の池袋のサンシャイン通りは多くの人々でごった返していた。平吾は人のあいまを縫うように、半身になって肩をだして通り抜け、進んだ。蒸し暑かった。確かスマホで天気をみたときに最高気温37度と表示されていたことを思い返す。彼は水色の開襟シャツに薄い生地のスラックスを履いていたが、それでも汗は噴き出した。いまのところ十五分の遅刻で、彼女はブックオフにいるとラインで知らせてきていた。
 エスカレーターで二階にあるブックオフ池袋店に入ると、一瞬「寒い」と感じるほどの冷気に覆われる。平吾はハンカチを取り出し額や首に溜まった汗を拭いた。胸元をぱたぱたさせて外気を取り込み、汗染みを乾かしてから彼女をさがした。二階はゲームやCDやDVDを売っている。
 彼女がいるとしたら三階だった。三階では書籍を中心に取り扱っており、じっさい、小説のた行の棚に彼女の姿を認めた。彼が遅れてごめんと言うと、べつに気にしてないよ、というふうに彼女は笑みをつくり小首を傾げた。彼女の手は太宰治の短編集を差し戻すところだった。
「恥ずかしいところを見られちゃったね」
「太宰が恥ずかしい?」と平吾が訊いた。
「こういうのってひっそり読むものじゃんか」
 そうかなあ、と平吾は言った。彼女は言い訳をするように、
「でもね、一つだけとても好きな短篇があって、暇なときに本屋があるとどうしても読んじゃうんだ」
「なんて題名?」
「『秋風記』。秋の風に、記録の記で『秋風記』」

 それからふたりは散歩をした。元々あてもなく唯会おうと言って約束したのだった。彼女から会おうと連絡があるのは決まって、彼女が死にたいというときだった。そういうとき平吾は彼女の相手をした。問題を解決することはできないから、踏み込んだ質問をすることはなかった。ただ一緒にいて、気を紛らわすことができればいいと思っていた。それに誘いを断って死なれた日には目覚めが悪いことになると思うと断れなかった。
 駅の周りをぐるりとまわって、南池袋公園という芝生のある公園にたどりついた。平吾は自販機で短いペットボトルのジュースを二本買った。ふたりは芝生のうえに落ち着いた。やはり気持ちのいい風がよく吹いている。
「こんなふうに風が吹くと夏も悪くないね」と平吾が言った。
「風が吹いても紫外線までは吹き飛ばしてくれないね。でも今日は、いいや。焼けちゃえばいいや」
 彼女はハンカチを開いてその上にお尻を置いて三角座りをしていた。シーソーで遊ぶ幼い子供たちを遠い目で見て、たまにちびりとジュースを飲んだ。
「シュウフウキってどんな話なの?」
「短いし読むことをおすすめするけど、きみって本とか読まないタイプだもんね」
 平吾は苦笑した。
「主人公の男の人が死にたくなって、女の人と湯河原とか熱海のあたりを旅する話」
「どうして死にたくなって湯河原に行くの?」
「湯河原に行きたいわけじゃなくて、たんに旅がしたかったんだと思うよ」「死にたくなったら旅がしたいものかな」
「うん」と彼女は答えた。平吾は彼女が向精神薬を何種類か処方されていることを知っていた。平吾は二度、余ったものをもらって、ハイになったこともあった。
「あの薬をのまないと死にたくなる?」平吾はピルケースが入っているであろう彼女のバッグに目をやって言った。
「死にたくなるっていうより……なんていうんだろう、どうしようもなく焦りに駆り立てられてきゅうっと精神が縮こまっていく感じがするの。どうしようもなく耐えられないし抗えない感じ。それを安直に表現すると「死にたい」、になるんだろうけど」
「じゃあ、おれと旅する?」
「え」
「湯河原に行ってみたらよくなるかも。それに聖地巡礼みたいなこともできるし」
 彼女はやや面食らったような表情をしたあと、冷静さを取り戻して、
「それで解決する問題じゃないのは確かなの」と言った。「でも、純粋にきみと旅行にいってみたいかもしれない」。

 そうしてふたりは駅に向かった。途中で平吾はコンビニに寄り、金をおろした。自分が誘ったからには二人分の旅費を払おうと考えていた。
 アプリで調べたところによると池袋から熱海は、新幹線を利用しなくとも、小田原駅乗り換えで二時間もしないで着くらしかった。旅費も片道1980円と安かった。駅に着くと平吾は彼女に2000円を差し出したが、彼女は固辞した。
「私も行きたかったから」と彼女は言い、宿泊費も割り勘ね、と念押しされた。
「まさか男だからおれがぜんぶ払うとか言うんじゃないでしょうね」
「LGBTQ!」と平吾が言うと彼女が笑った。

 ふたりは湘南新宿ライン特別快速(小田原行)に乗り込んだ。彼女は電車に乗るとすぐに眠った。これは彼女の癖だった。揺れる乗り物に乗ると、いつも眠くなってしまうのだという。彼女の頭部のぬくみを左肩に感じながら、平吾は熱海の旅館をスマホで探した。ちなみに湯河原ではなく熱海になったのは、熱海の方が旅費が安く済みそうだというのと、金色夜叉の像を見たいという彼女の希望からだった。
 平吾はある程度安いが評価も悪くなく駅から近いホテルを「じゃらん」のアプリでみつけて、これなら彼女も文句はないだろうと思って予約した。チェックインの時刻は十九時に設定した。電車は熱海駅に十八時三十七分に到着する予定だった。
 そのうちに電車は終点・小田原駅に到着した。平吾はいまだ寝ている彼女の顔を覗き込んでみた。やや細長い顔に長いまつ毛をした眼があり、鼻は高く、唇は薄い。肌の色を抜きにすれば、美形のヨーロッパ人のようだった。背も高い彼女は、なにかにつけ「モデルにならないのか」とか「芸能人になればいいのに」と言われて育ったらしい。いま付き合っている男にもモデルになればいいと言われたと平吾は愚痴をこぼされていた。
 乗り換えだよ、と平吾は彼女を揺り起こすと彼女は目を何度かこすって泣くように小さく呻いた。熱海い? と彼女が訊き、彼は、小田原だよ、ほら、乗り換えの、と答えた。ああ、といって彼女はよろめきながら立ち上がり、電車を降りた。
 湿気を含んだ暑さが十八時過ぎの小田原駅のホームを包んでいた。あつ、と平吾が言い、続けざまに彼女もあつう、と言った。
 ふたりは階段を昇ってプラットフォームに出て、東海道本線(東日本)(熱海行)に乗り込んだ。彼らが乗り込んだ途端に電車の扉はしまり、電車は走り出した。休日ということもあって学生やスーツを着た人々の姿はなく、席は空すいていた。ふた席が向かい合っている四席の窓際に彼らは向かい合って座った。彼女はやはりすぐに眠りについた。その席には窓際にテーブルというには怪しい凸部があり、彼女はそこに左の肩肘を置いて手に頬を預ける形で眠っていた。
 熱海駅までの十六分間を平吾はSNSをみて過ごした。彼はインスタを開いて、フォローしている人々のストーリーを見ていった。彼は自分からの発信をひとつもしない、いわゆる「見る専」のアカウントを一つ所持しているのみだった。ストーリーを追っていると、そのなかにいつ撮ったのか彼女のストーリーもあった。黒い背景に白い小さな字で、「旅に出ます。探さないでください。笑」と書いてあるだけのストーリーだったが、平吾は焦った。彼女の恋人にも公開されているとしたら面倒なことになったぞ、と思った。
 熱海駅に着いて、彼女を揺り起こし、ストーリーについて訊いた。彼氏にも公開していると彼女は言った。それで彼氏は、と訊くと、「さっきから鬼ラインきてて通知切ってる」と彼女は言った。あっけらかんと言った。
「なんて説明したらいいか……彼氏さんのこと全然考えてもいなかったから……」
「大丈夫、ひとりで行ったことにするから」
 最終的にそうするほかないと平吾は落ち着いて、宿について説明した。彼女は予約した宿に満足したらしく「はやくいこ」と我先にホームの階段を昇っていった。夕方の熱海の蒸し暑く、ふたりは曇りの夜のしたを歩いていった。

「きみとシてる夢を見たの」
 白いガウンを着て、髪の毛を巻き上げた彼女が、ベッドシーツに座り込んでいった。
「電車の中で?」
「そう、二回も」
「二回も」と平吾は答えた。「それって誘ってるの?」
彼女は笑った。それからふと真剣な顔になって、また口の端だけを微妙にあげて笑みをつくった。
「夢に直接的な意味はないと思うの」
「ああ、いやだ、フロイトとかユングとかまた言い出すんだろ」と平吾がおどけたふうに言うと、彼女は頷いた。
「きみとセックスするという夢は、彼氏以外と関係を持つということ、つまり、彼に抑圧を感じていて、そこから逃避したい願望を表しているということだと思うの。だから旅行に来たというだけで目標は達成されていると考えていいと思うのよ」
「なんだ」
「なんだってなによ、私と一緒にいられるだけでもありがたく思いなさいよ」
 彼女は冗談っぽく言った。しかし平吾はあながち彼女は冗談を言っているのではないと思った。ふだんの会話の端々から彼女が自分を女王のように振る舞う気質が見え隠れしていた。そしてそれを彼は生来のものだと感じていた。
 平吾はベッドに乗り上がり、彼女の両肩を押して布団に沈めた。彼女はえ、と声をあげるが、彼は構わない。彼女のガウンを開いて、その小ぶりな胸があらわになった。
 平吾は彼女の目をみた。彼女は口を閉ざしたまま瞳を大きく開き、見返す。彼女は口をぽかりと開いている。彼は彼女に口付けをする。雑な口付けだった。彼女の名前はなんていうんだっけ、と一瞬忘れる。舌を彼女の咥内に踊りこませる。歯の裏を舌でなぞり、裏の歯肉をくすぐりながら舌と舌を絡め合わせる。彼女も協力的だということにこのとき彼は気づく。ふたりは舌をそのままに、彼は彼女の左の乳首を右手でいじくり、左手を下腹部に這わせ、女陰を手探りでみつけると豆粒のようなそれをくりくりと執拗にいじくった。彼女は口付けのあいまに喘ぎ声を漏らす。女陰は彼が触れる前から濡れていた、そして触るにつけさらに濡れてきた。おおよそ入ってくるものを待ち受けるように十分に愛液を滴らせた女の中心に向けて、既に固くなっていた彼が入っていった。彼女は高く喘ぎ声をあげた。

 翌朝は八時に起きた。
 ふたりはホテルの朝食バイキングで、おのおの好きなものを食べた。彼女はサラダと味噌汁とご飯と納豆で均整の取れた食事だったが、平吾はスクランブルエッグとご飯とミニラーメンというアンバランスな食事だった。彼女は彼の食べるものになんの感想もなかった。というより興味の対象が彼ではなく自分の食事に向いているとき、彼女の目には目の前の彼すら入らないのだった。彼女は三大欲求に正直なひとだった。
 食事が済むと、ふたりはコーヒーを飲んで、一度部屋に戻った。部屋のドアノブには「掃除済」の札がかけられており、中の清掃は、ふたりの持ち物をのぞいて、完全に行き届いていた。平吾はなにか恥ずかしい気持ちになったが、彼女には何もいわなかった。

 熱海の商店街は八月中旬にもなると混み合っていた。商店街は真ん中に大きな幅の路をもち、その路は蛇行して海に向かっていた。彼女はミラーレスの一眼レフを持っていたが、急な旅だったので家に置いてきてしまったことを悔やんで、仕方なくiPhoneで写真や動画を撮っていた。
「匂わせるんじゃないよ。てかインスタに投稿しないでくれよ」と平吾が言うと、
「ひとりで来たテイだから大丈夫よ」と言いながら、カメラを平吾の方に向けた。彼が顔に向けられたレンズを左手で遮ろうとすると、「この動画は載せないから」と彼女は言った。平吾は信じることにして左手をおろした。いや、信じたというより、任せたといったほうが良いかもしれない。彼女ほどではないが、平吾の心のなかにもやはり不気味な揺らぎがあり、それが振り切れると他人に全権を委任していいような気持ちになった。そういうことがこれまでもいくらかあった。大抵の場合、それによって彼は良い結果を得られたことはなかった。

 熱海の商店街を抜け、蛇行する舗装路を歩いていくと、道幅は狭くなった。
 彼女はスマホ片手に、もう一方の手で平吾を引いていった。彼は従順だった。道幅が狭いので、横並びにはならず、縦に引かれて路を行った。途中、半分露店の道具屋があり、彼女はそこで足をとめた。さまざまな道具が無秩序に販売されていた。トーテムポールのようなものから小物まで、本当にさまざまな道具に値札がついていた。値札は赤のペンで走り書きされ、セロハンテープで商品にくっつけられていた。
「これ」と彼女が指さしたのはネクタイだった。ベースが紫色の標準的な太さのネクタイで、黄色い馬具の模様がこしらえてある。「きみへの贈り物にしようかと思って。素敵な旅のお礼に」
「元はといえばこっちから誘ったんだから……」
「それでも行きたいと思ったのは私よ。それに、元はと言えば私が読んでいた小説が原因じゃない」
 まあ、まあ、といい、平吾はネクタイの裏をしらべた。¥3000。
「お兄さんたち、いいものに目をつけたねえ」店の奥の闇から、いつか老婆がでてきて言った。「イタリア製のシルクのネクタイだよ……。他にもあるから持ってこようか」
「あら素敵、お願いします」と彼女は声を一段高くして言った。老婆は店の奥の闇に引っ込み、また出てきた。紙の、おそらくご当地の土産物のまんじゅうが入っていたような箱の中に、折りたたんだ十本ほどのネクタイがあった。
 彼女は平吾の首元にそれらをひとつひとつあてがい、うーんとか、あーとか言った。そして結局、最初に見つけた紫色のネクタイだけを買って、平吾に渡した。ありがとうと彼はいい、また彼女になにか贈り物をしなければ、と思った。しかしそれも彼が「男だから」、「もらってばかりでは男が廃る」というジェンダー観によるもので、……などということを考えているうちにふたりは海に出た。正確には海を見下ろす堤防の先まで来た。

 金色夜叉の像はたしかにそこにあった。石の土台に「貫一お宮之像」とあり、その土台の上に学ランのようなコートを着た男に蹴られている女の銅像が設置されていた。彼女は蹴られている女の隣に立って、まっすぐ腕を伸ばしピースをした。それだけで様になった。平吾は彼女のスマホで写真を撮った。銅像のお宮の顔が一瞬、にたりと笑った。しかし彼が瞬きをするとお宮は元通りになった。
 通りがかりのひとに撮ってもらったってことにするから、と彼女は言ったが彼にはもうどうでもよいことだった。いっそ恋人にバレてしまえばいい。彼は昨晩に彼女の左手首に一本、横っぴきの自傷痕があるのを見たのをふと思い出した。それは火傷をしたようにみみず腫れに盛り上がり、どれだけ深く皮膚を裂いたかを如実に表していた。ピースをする彼女の長袖のワンピースの内側にはその火のような傷があるのだと思うと、画面越しの彼女は、彼にはいっそう美しく感じられた。

 ひとしきり写真を撮りおえると、ふたりは堤防をおり、砂浜を歩いた。彼女はいつも先を行った。海と砂のあいまを縫うように歩いた。時折砂に足を取られ、パンプスを脱いで左手にひっかけて歩いた。正午の日が垂直に照りつけ、海は大量の金箔が踊るように輝いていた。つむじに暑さを感じながら平吾は彼女のあとをついていく。後ろから自分のスマホで彼女の写真を撮った。カシャリという音は波にかき消されて彼女は気づかない。ようやく気づいたのは彼女が、彼がちゃんとついてきているかと振り返って確認したときだった。彼女は向けられたレンズをすぐさま認識し、「ピース」といって銅像のときと同じようにピースをやった。ひとつ違うのは彼女の表情だった。日の下で彼女の笑みが天使のように輝く。その目、唇、光る鼻頭、そのどれもが美しかった。

 彼女が「お腹がすいた」というので、商店街までもどり、海鮮料理の店に入った。彼女はいくらとサーモンの親子丼を頼み、平吾はさほど腹が減っていなかったので、伊勢うどんを頼んだ。
「熱海まで来て伊勢うどん?」と彼女はあきれたように言った。「風情がないわねえ」
 平吾は特に反論しなかった。「こういうときに伊勢うどんを頼むなんてやっぱり粋じゃないのよ」「あなたはなにかにつけてそう、なんだって他人事」「もう私たち大学4年生なのよ、なんで就職活動しようと思わないの」「わたしもあなたみたいに未来について無頓着だったらよかった。あ、これ皮肉ね」。
 彼女のそれはどんぶりが届くまで続いた。しかしどんぶりが届くと彼女は黙々と昼食を食べ始めた。彼は伊勢うどんを彼女より早く食べ終わり、インスタをひらいた。やはり彼女はストーリーを更新していた。どんぶりの写真の右下に「うめえ」と白い小さな文字が斜めに入っている。対面にいる彼や彼の食事はいっさい映っておらず、彼女なりに配慮したらしかった。

 ホテルに戻ると、つまみのビアハムやチーズのアソートをつつきながら、ふたりは酒を呷った。平吾は下戸だったので、ほろよいのホワイトサワーをちびちび飲み、彼女はつまみを買った高級スーパーにあった赤ワインを、ホテルのガラスコップに注ぎ注ぎ飲んだ。彼女は酒をいくら飲んでも顔や耳が赤くならなかった。酒に強かった。語調が少し強くなった。そして悲観的なことをよく口にした。「みんな見た目だけよ、私のことを好きなのは」「こうやって酔っ払っているとみんな優しくしてくれるの、それにこれを見せた時とか」といいながら彼女は手首を捲り上げ自傷痕を見せた。
「おれはそんなことで優しくしない。酔っぱらっているときの方がいいとは思わない」
「嘘よ」
「嘘じゃない。もう見飽きたんだ」
 平吾は彼女に話したことがあった。これまでに付き合ってきた女性のうち3人が自傷行為をすでに行なっていたか、自分と付き合っているうちにしたことを。そして「死にたい」と思う気持ちが理解できないということも。
「ところでいつまでここにいる?」ホテルは二泊までとってあった。
「延長はなし。明日帰ろ」と彼女は言って、ぐびりと残り少なかった赤ワインを瓶ごとラッパのみにした。

 その晩、平吾は彼女に一度たりとも触らなかった。酔っ払った彼女はおそらく彼に身を任せただろう。しかし彼はそれを望まなかった。そこで彼は彼女の理性が好きなのだと気づいた。

 翌朝もホテルのバイキングを食べ、それからチェックアウトした。ふたりは替えの服を持っていなかったので、ユニクロでステテコとTシャツを買い、それを着ている間にホテルで服を洗濯・乾燥させた。
 チェックアウトのときには、チェックイン時と同様の服を着て外に出た。

 蝉が朝から鳴いていた。それも東京とは違う種類のふたりを責めたてるような鳴き方をする蝉が鳴いていた。平吾は陰を歩きながら俯いて歩いた。彼女も陰を歩いたが、iPhoneを片手で操作している。暑さにアスファルトがほんの少し柔らかく、におい立つ。空気はぬくく、風はほとんど吹かなかった。吹いてもそれはぬくい風だった。ホテルの陰から出ると、熱射が彼らを東側から照りつけ、影をつくった。ふたりは重いものを抱えているように無言で、呻き声でも出してもおかしくないようなようすで駅に向かった。駅はすぐ近くだった。
「どうしてきみは素直に生きられないんだろうね」平吾は電車のなかでまだ眠る前の彼女に言った。彼女ははっと起きて少し考えてから言った。
「社会が許してくれないからよ」
「社会なんて大きいものかな。ぼくはきみ自身がそれを許していないような気がする」
「そうね。社会は私のなかにあるのよ。内にもあって、外にもある。でもどちらか片方にでも拒絶されたら心が揺らぐの。死にたいってそういうことかもしれない」

 そうして二泊三日の旅は終わった。彼女は、その日帰ると、恋人に初めて手をあげられたと平吾に伝えた。

 平吾はクロスバイクを漕ぐ仕事を再開した。
 晩夏、仕事の途中で、あるアクセサリー・ショップを見つけた。そのとき平吾はふと、彼女にもらったネクタイを思い出した。
 ショーウィンドウにあった商品が気になった。一度帰ってから、服装を小綺麗にしてその店に入った。
 ネックレスを買い、彼女に送った。銀で、小ぶりの十字架のついたネックレスだった。これで彼女がいつでも祈れるように、ゆるしをこえるように、そう思って。

 先月、彼女からそれが届いたとラインがあった。
……壊れるまでつけ続ける
……ありがとう
……大事にするね
……うん
 それで会話は終わりだった。平吾はたびたびインスタを開いて人々の投稿をみた。そのなかには彼女のストーリーも含まれていた。写真や動画のなかの彼女はいつもそのネックレスをしていた。平吾はそれをみて、なにか不気味な感覚がした。後戻りできないところに来てしまったという感じがした。それを振り払うように、彼はペダルを漕いだ。片脚を跳ね上げ、もう片足で軸をつくる。逆転する。そのフォームとタイミングが完璧であればあるほど揺らぎは少なくなった。完璧を目指して彼はペダルを漕ぎつづけた。


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