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私の棲むぼんやりの世界
生まれつきの軽い弱視、らしい。
まだ子どもの眼鏡なんてとても珍しかった時代。
いなかの眼鏡屋さんに置いてある子ども用の眼鏡は、見るからにかわいくない赤縁のフレーム。
小学校入学に備えた健康診断で「目の異常あり」。
私の一年生は、眼鏡とともに始まった。
今思い出しても悲しくなるような眼鏡。
よく見えていないということがどういうことか、自分でもよくわからなかった。
「他人」には世界がどう見えているのか。
私の見え方が人とどう違うのか。
軽い弱視に加え、近視・乱視・さらには数年前から見事な老眼までご登場。
見えないことの不便さは募るばかり。
若い頃はコンタクトレンズを使っていたが、
老眼になってからはコンタクトレンズも見づらくなった。
病気を抱えている私は、布団の中で過ごす時間が多い。
とにかく疲れやすい。
布団で休んでいるときも、調子のいいときには本を読んだりタブレットで何か読んだりする。
幸いなことに、近くを見るためには老眼鏡は必要ない。
自分の手元を見るには、裸眼がちょうどいい。
(これから先は老眼鏡が必要になるのかはわからない)
キレイに、ではないにせよ手元だけを見るのは不自由しない。
でも手元を見ていても、その周りのぼんやりとした世界は視界に入る。
このところ、タブレットと睨めっこする時間が増えているので
頭の中がひどく疲れている。
目の奥から後頭部、首から肩に鈍い痛みがある。
ひどく頭の中が疲れると、テキメンに眠りが悪くなり体調が落ちる。
少し目が覚めて、また眠ろうとしたけど眠れなくて
布団の中からぼんやりと窓の外の空を眺めていた。
雲がびょ~んと横広くなりながら右へと流れていく。
もう少しハッキリとした映像で見たい、と思って眼鏡を取ろうとした。
でも
「このぼんやりとしか見えないのが、私にはいいのかもしれない」と思い直した。
そう思ったらなんだかちょっと楽しくなって、
私の「ぼんやり」をnoteに書きたくなった。
「見る」のは、とても疲れる。私にとっては。
もともと視力が弱いということもあるのかもしれない。
何かをしっかり見ていた後は、とても疲れる。
なので、最近は何かを見るときにキレイに焦点を結ばないように意識している。
眼鏡をかけていなくて全体がぼんやりしているときは、
私の目はしっかりと焦点を結ぶことを諦めるらしい。
眼鏡をかけてハッキリと見えるときは、どうもキチンと見ようとしてしまう。
それがとても疲れる。
テレビを見ているとき、周りを見ているとき、
それがそんなにハッキリと見なくていい場面のときは、
少し視点をずらしてぼんやりと見るようにする。
意識してぼんやりの世界を作る。それが少し身についた。
緩く見ようとすると、目の疲れ方も緩いらしい。
ふつうにハッキリと見える人たちには、ぼんやりと見える世界は違和感しかないかもしれない。
やっぱり、はっきりくっきり見えるほうが気分もスッキリすると思う。
「ぼんやり」は、気持ちのもやもやに繋がる。
でも私にしか見えない、私の「ぼんやり」。
ぼんやりとしか見えない。
ぼんやりとした世界が見える。
皆とは少し違ったぼんやりの世界の中で、見つけられる面白さあるかもしれない。