代理家族
生活の一部のようになっていたInstagramから少し離れてみた。
イヤになったとか、疲れたというわけではなかったけど。
なにかが自分の中で大きく一段落した気がした。
子どもの頃、超ビビリ・人見知り・人が怖い、と、三拍子揃っていた私。(今では嘘のよう!)
もともと誰かに向けて「言葉」を発することが、とても苦手な子だった。
物心ついた頃から私は母の愚痴の聞き役になってしまっていて、自分の言葉を発する機会をますます失っていたらしい。
母が見せるのはいつも眉間にシワを寄せた顔なので、よけいに自分の言葉を母にはぶつけにくかったよう。
(それは今でもあまりかわらない)
「ねえお母さん、聞いて!」そんな簡単な言葉が私にはとても難しかった。
本当は、一番「母」に聞いて欲しかったのだと思う。些細なことでも。
いいオバサンになっても、なんでもないことを「あ、これ、誰かにちょっと聞いてほしい!」と思う瞬間がたくさんある。
子どもの頃の私は、今よりもそんな瞬間をたくさん持っていただろうと思う。
二年ほど前、ひょんなことからSNSを始めることになった。
まったく興味がなかったし、半分イヤイヤながら。
ただ、ガラケー時代からメールを打つのはなぜかむちゃくちゃ早かったし、意外とスムーズに文章が出てくる。
(かれこれ何百通も手書きの手紙を書いてきて、ずいぶんと鍛えられていたらしい)
日々の些細な出来事や愚痴。
そんな「ちょっと誰かに聞いてほしい!」を私は自分でも意外なほど(下手なりに)文章に乗せることができた。
ぐだぐだと書きすぎてしまうので、読み手をうんざりさせてしまっていただろうし、スルーしていた方も多いだろうけど。
読みやすさという点は横に置いておくしかないのだけど、SNSは私にとっての好都合の居場所になった。
私の勝手な印象だけど、Instagramは、noteよりも回転が早くて瞬発力が必要。
私はもともと「お知らせ」などの発信のためにInstagramを使い始めたので、早く情報を挙げていかないと意味がなくなってしまう。
じっくりと文章を考えるよりも、とりあえず次から次へ発信していかなくてはという感じの日々。
間に自分の愚痴をたくさん挟み込むのだから、よけいに忙しくなってしまう。
すごく忙しかったけど、たくさん愚痴を吐き出させてもらった。
子どもの頃、たぶんたくさん呑み込んでガマンした「ねえお母さん、聞いて!」の気持ち。
満たされずに持ち越してきてしまったそんな気持ちは、たぶんもう成仏したのではないかと思う。
自分の病気をさらけ出すのはけっこう勇気が必要だったけど、「さらけ出してもだいじょうぶなんだ」と安心感を持てた。
家族のゴタゴタも、皆さん上手にスルーしてくださるので安心して吐き出せた。
(だからnoteでもさらに詳しく書いてみようと勇気を持てた)
フォロワーさんはとても少なかったけど、私のぐだぐだな文章にお付き合いいただいた方たちには心から感謝!
(もちろんnoteも同じ)
楽しい場所だった。
仲間たちとワイワイガヤガヤという感じ。
いろんな情報に溢れていた。
行ってみたい場所の写真や動画。
美しい青色や星空。
かわいい犬や猫。ふと笑顔にさせてくれる子どもたち。
有名な人たちがメディアとは違う角度で見せてくれる部分。
どれだけいても飽きない世界。時間はあっと言う間に過ぎていく。
とにかく居心地のいい場所だった。
自分の欲求を満たしてもらったと感じられるのなら、一旦そこを離れてみるのもいいかも…。
ということでInstagramから離れてみた。
読んでくださっていた方たちは、私にとっての『お母さん代わり』だったんだなぁと思う。
(それはnoteも同じだなぁと思う)
Instagramから離れてみたのは、私にとっては、もしかしたら「母」からの卒業を試みるものだったのかもしれない。
SNSからはすべて離れてみようかと思ったけど、結局またnoteに戻ってきてどっぷりと浸かってしまっていることには自分でもちょっと苦笑。
noteでは、「追われる」ことなく時間をかけて文章を考えられるのが心地いい。
ただ、自分自身のずいぶんと踏み込んだ部分まで書かせてもらったので、精神的には少しハードだった。
私にとっては「父親的」だと感じられる場所だったかもしれない。
現実の生活では、まだ両親からの精神的離脱をはかっている最中。
完全に離脱できたわけではないけれど、家の中の空気は少しずつ穏やかになってきたように感じる。
それは私にとっての家族以外の『居場所』ができたからかもしれない。
安心して『素の自分』でいられる場所。
私にとっての『代理家族』なんだなぁと思う。
そんな『代理家族』を手に入れたことで現実の世界が穏やかになっていくとしたら、こんなにありがたいことはない。
そのうちnoteからも卒業していくのかどうか今の私にはまったくわからないけど。
『代理家族がなくてもだいじょうぶ』という私になれたら、それは嬉しいことなのかもしれない。
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