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第二外国語はどこへ行くか

大学での第二外国語論争が昨年の末くらいからツイッターで行われていたようですが、週1回90分の授業がなぜ開講されている(いた)かという話について、現役の先生がこうおっしゃっています。年末にバズってるっすなあ…

私自身も大学で英語「その他の言語」(先日も関連する記事を書きましたね)を専攻し、その中で第二外国語も履修した身として、増田氏の発言にはおおむね同意します。

唯一、私なら(私がもし大学で語学の授業を担当する機会があれば)週1回の授業ではあっても、履修してくれる学生諸氏にはいずれその言語(私の場合なら、トルコ語やアゼルバイジャン語がそうですが)を実用コミュニケーションができるようなところまでもっていってくれることを薄く期待はしたいかな、というところはあります。

むろんそれは自分の提供するカリキュラムで完成させるという意味ではなく、そのきっかけを提供できれば、という意味においてです。これも以前のどこかの記事で言及しましたが、週1回90分授業を受けて、その前後に多少予習した程度では、とてもじゃないですが身につきません。そこはどうしても、学習者が主体的に時間をかけないとどうにもならないところかなとも思います。その意味では、増田氏がおっしゃっている「…ではない」というのはたしかに、というところではありますね。

トルコ語に関しては、自分はちょっと欲を出したい。そう思うくらいには、かの地域と言語に愛着があるということでもあるかもしれません。

以下は個人的な憶測…と前置きしつつ書くのですが、思いますに受講する側からすると「サブ」または「マイナー」という位置づけである一方で、教える側自身はまさにその言語こそが「メジャー」であることが多いのですよね。

先生方は相当の熱量をもって授業なりカリキュラムにのぞんでいるのではないかと想像するのですが、このコンテンツを提供する側の熱量と大学あるいは世間の温度差がちょっと大きすぎるのだろうな、というのが最近の関心ごとです。

いずれにせよ、採算のとれない(費用対効果の薄そうな)科目はいずれどんどん教育機関から姿を消していくという流れはもうどうにもならないのだろうなと想像しています。その点では外大のオープンアカデミーという場所は「二外」候補たちにとっては最後の砦のような位置づけということもあるのかもしれませんが。

それでも、「二外」(下手すると、さらに「三外」以降の位置づけの言語)を提供する側からしても厳しい状況であることには変わりはないということですよね。一方で、数少ないながらも存在する需要にどう対応していくか。我々の立場からすれば、どうやってこの言語でしのいでいくかという話でもある…それが学校という公共の場でかなわないのであれば、では…?


ちなみに、「自らの思考を相対化する」効果が日本語、あるいは中等教育で長らく触れたであろう英語以外の言語を見ることで本当に得られるかどうかというのは、やってみないと実感できないことであるというところにも一つ要点が潜んでいるのだろうと思います。

なんなら、それが身についたという自覚もないことが多い。「虚学」と揶揄される原因もそこにあるのでしょう。そういう手合いに対して、どう対抗していくのか。議論は可能なのか、議論してなにか得られるのか…

まじめに考えると、今年も大変な1年になりそうですね。
ということで、まじめには考えないことにしましょう。不毛そうだし。

語学は楽しいからやる。この楽しさは他人から伝えられてもわかりにくい。経験してもらうのが一番。そのためにどうしたらいいか、作戦を練るのがわれわれ「その他」勢のお仕事…ってなところでしょうか。今のところは、自分たちが楽しんでいるさまを見せていくくらいしかないのかなとは思っているのですが、二の手三の手を考えてみたいところではありますね。

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