アウトプットへの反応をいただけるのはうれしいことです
誰かが編集する本の一部の部分的な執筆でも本の執筆でも、何か世に出る際にはできるだけ自分で宣伝するようにしている昨今です。多少そのことに対するちょっとした罪悪感というか恥じらいのような感覚がないこともないのですが、なんせ書いたもの、世に問うたものがあればその存在を知ってもらうことから始めるのも、アウトプットした側の大事な作業なのかもしれないと最近は思うようにしております。
書いたけど、作ったけど、出したけど。
周りの反応がないというのが生み出した側からすると一番悲しいというか寂しいことではないかと最近改めて思うのです。こういう雑文の更新がなかなか続かないということは往々にしてありますが、主な原因の一つとして、がんばって書いたのに思ったほどリアクションがもらえないということがあるのかなと思うのですがどうでしょうか。
いわゆるアウトプットでいうと、私個人の場合はここ数年トルコ語講座の担当を仰せつかったりもするのですが、それもある意味で私自身のアウトプットを含むことになっているように思います。教え方しかり、講座の時間に何をするか(または、話すか)を計画することしかり。それに対するリアクションも、もらえるとやはりやる気が出る部分があります。
ありがたいことなのです。フィードバックも含めて、トルコ語講座なら「今回はここがわからなかった」とか、小テスト(「挑戦状」と名付けている例のそれですね)の答案と一緒に「教科書を最初から読み直しました!」と一言添えてくださったりとか。
小テストを作るのとか採点するのとか、ほんとうはとても面倒なことなのですよね。それでもそんな風に感想なりリアクションなりいただけることで、ああやってみて/問題作ってみてよかったと思えてしまうというのですから、人間の承認欲求とは御しがたいものですよねえ…。
もちろん自分の世に問うたものに対して、いつもポジティブな反応ばかりもらえるわけではないのですが、それでも昔、某言語学会の研究発表である先生に酷評されて、まあまあ落ち込んで大阪に戻った後近しい先生にその旨告げましたら、「まあしかしそれでも、反応をもらえただけよかったということだ」という趣旨のお言葉をいただいて、その先生もなかなか普段辛辣なことで知られていましたが(この先生方のお名前はもちろん伏せます!!!!)、あの一言には救われたなと思うなどもします。
そういえば『しくみ』というのは、ここまでの半生でかなり世の中からのリアクションをたくさんいただいたアウトプットの中でも1,2を争うものといえます。そのリアクションの中で特にうれしかったのはあの黒田龍之助氏に、書評の本で紹介していただいたことでした。
当時アンカラ在住の時代でしたが、これもSNSでフォロワーの方に「言及されてますよ」とお知らせいただいて、日本に一時帰国したときにすぐさま書店に行って買い求めたことでしたよね…
いろんな場所でいろんな形で、こういった経験を踏まえて現在に至りますので、ここの媒体はもちろん、SNSでつながっている人が何かアウトプットをしたときには、微力ではあるのですができるだけそれが世に広まるお手伝いはしたいなとも思っています。
そして自分自身もまた、今からさらにアウトプットを続けていかなければ、とも。
いろいろと今、テュルク諸語の語学書関係のものを世に出す日が近づいておりまして、締め切りのメールなりメッセージなりにおびえている有様なのですが、何かの反応をいただけることを心の頼りとして仕事を進めたいと新たに心に誓う、雨の長崎の片隅で過ごす木曜の朝でございます。
今日も今日とて、雑文ご容赦のほど。オレたち、とにかく原稿やっていこうな!
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