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フクシマからの報告 2019年春    8年間眠り続けた           原発事故被災地の高校 ついに休校  被災地に子供戻らず 消えゆく学び舎

 前回のカエルの産卵プールに加えて、私がサクラ咲くシーズンに福島県飯舘村を訪ねると必ず寄る場所がある。

 同村深谷にある相馬農業高校・飯舘校である(冒頭の写真=2019年4月27日に筆者撮影)。1949年の創立。これまでに約3400人の卒業生を送り出してきた。全校定員40人のこじんまりとした学校だった。

 2011年3月11日から始まった福島第一原発事故による汚染で、国が全村民6,000人に強制避難を命じたとき、この学校の生徒や教師たちも、約50キロ離れた福島市に学校ごと移転を強いられた。それから8年。生徒がいなくなった校舎は今も、時計が止まったかのように眠り続けている。

 2011~12年当時、無人になった村を取材で歩き回っていた私の目に飛び込んできたのは、校舎の傍らで咲き乱れるサクラの美しさだった。

 卒業や入学のたびに、このサクラは若者たちの上で微笑んでいたのだろう。それはここで学んだ生徒たちにとって、なにものにも代えがたい貴重な思い出にちがいない。

 原発事故の避難で生徒や教師が姿を消したあとも、サクラは毎年変わらずに咲き続けていた。毎年足を運ぶたちに、グラウンドや校舎が雑草に埋もれ、図書室の本が色あせても、それだけは変わらなかった。

 相馬農業高校は、今も福島市にあるプレハブ校舎に移転して授業を続けている。しかし、2018年についに生徒の募集を停止した。2020年には休校することが決まっている。2019年4月現在、最後の3年生11人が学んでいる。

 2017年春に村の強制避難が解除されたとき、農業高校もこの場所で再開するのかと私は期待したのだが、むなしかった。

 この校舎に、相馬農業高校の生徒たちが戻ってくることは、もうない。

 飯舘村では、4校あった小学校と中学校が、2017年4月の強制避難解除に合わせて、新築の校舎に統合されてオープンした。子どもたちは、村外からスクールバスで通っている。行政やマスコミはそれを「復興」と呼ぶ(↓2019年4月27日撮影)

 眠り続ける農業高校の校舎は、これとは対照的である。

 小中学校は飯舘村立だが、高校は福島県立である。同じ村にあるのに、反対の姿になったのは、所管する行政が違うからだ。小中学校は村役場(正確には教育委員会)の判断で再開できるが、高校は福島県の判断なのである。

 2018年に飯舘村は、この高校も運営を村が引き受けて村立高校にする計画を打ち出した。が、村議会の反対にあって頓挫した。

 ピカピカの小中学校がオープンする一方で、かつての4つの小学校の校舎は今も無人のまま眠っている。後述するように、飯樋の幼稚園は解体されてしまった。飯舘村に限らず被災地では、思い出に満ちた学校が次々に解体されて姿を消している(下は飯樋小学校。無人のままグラウンドが草むしてる。2019年2月14日撮影)。

 原発事故で高濃度の放射性物質を浴びた建物は、そのままでは子供は戻れない。除染するより、解体してしまう。放射性廃棄物としてフレコンバッグに入れて持ち去る。建物を新築する。学校を統合する。これは学校に限らず、原発被災地に共通した現象である。

 育ち盛りの子供たちが避難したまま帰ってこない。飯舘村に限らず、原発事故被災地ではどこもそんな苦しみを抱えている。

 子供世代が帰って来ないということは、その親世代も帰ってこないということだ。「帰ってくるのは高齢者が大半」という現実と対の現実である。「原発事故被災地のコミュニティがゆっくりと消滅していく」という暗いシナリオが、現実になってきている。今回は、その事象として「学校はどうなったのか」「児童・生徒はどうなったのか」を書く。

(写真は特記のない限り2019年4月27日、福島県飯舘村で筆者が撮影した)

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