カイロ団長 #宮沢賢治noteその3
さて、第3弾になりました。青空文庫で読み放題の宮沢賢治さん作品。サクッと読めてちょっと考えさせられる。ぜひ手持無沙汰な5分を、電車の移動時間を、寝る前の自分への読み聞かせを。https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person81.html
カイロ団長。なんだかかわいい響きです。カタカナ+漢字ってのは、独特の味わいがあります。もともと外来語だったものを、日本語の音声に当てはめたのがカタカナ。まず、カタカナってなんか可愛いですよね。スタジャンとか、ポップとか、ニットとか、バニラとか。日本の本来ある形は、恐らく漢字とひらがな。ある意味、異質な他者として登場したカタカナですが、今ではすっかり僕らの生活に馴染んでいますね。カタカナ+漢字は、和洋折衷。かたすぎず、やわらかすぎず。西洋(を表した日本語)と東洋(でも元々は中国)という、日本語乍ら、日本色をかなり排した形。
例を考えてみましょう。トリンドル玲奈さんが何故か一番先に浮かぶのはなぜでしょうか。あとは、ゲシュタルト崩壊、無罪モラトリアム、勝訴ストリップ、星屑ロンリネス、抹茶カステラ、東京ディズニーランドとか?うん、全く脈絡ないけど、並べてみると独特の味わいありますね。全然意味は違うのに、共通点として、日本らしさの若干の欠如がある気がするぞ。
タイトルに関してはこのくらいで、内容に入っていきます。あまがえる(一般市民・労働者)たちは楽しく面白く30匹で働いて、毎日を過ごしていました。冒頭の短い文章ですが、彼らが楽しく、協力して働いている充実した毎日が伺えます。
そんなある時、とのさまがえる(雇い主・権威者・支配者)のお店に入ったあまがえるたちは「舶来ウェスキイ」(あまがえるが舶来のウェクーというのが、ほっこりして好きです)を大量に飲み、勘定を払えなくなってしまいます。立ち向かうも、酔いとポテンシャルの違い(ここは、身体的)で、敵わないあまがえるたちは、とのさまがえるの下、「カイロ団」として働くことになります。
とのさまがえる(カイロ団長)は、あまがえるたちに理不尽な仕事を次々と言い付けます。あまがえるたちは、これまで自分たちが仕事を請け負ってきた人たちに助けられ、なんとか日々を凌いでいきます。これは、彼らが楽しく、そして顧客に対して真摯に向き合ってきたから得られて成果であると言えます。
しかし日に日に厳しく、理不尽になるとのさまがえるの要求。ついに耐え切れなくなったあまがえるたちは反抗します。労働者の立場。童話でありながら、プロレタリア文学の側面がここで表面化します。リアルな世界でないからこそ、実感できることもあるんですね。
その時、王様の命令が下ります。一気に立場が逆転する。とのさまがえるは、自身で下した命令によって自身をもってその辛さを示すことになるのです。もちろん、無茶苦茶な命令を達成することは出来ず、とのさまがえるは「足がキクッと鳴ってくにゃりと曲がって」しまう。笑うあまがえる。しかし、その後にやってくる「しいん」とした空気。「さびしさ」。どうしようもない状況。誰かを笑うこと、それはいじめと表裏一体。
王様の新しい命令。
「すべてあらゆるいきものはみんな気のいい、かあいそうなものである。決して憎んではならん。以上。」
そうなんです。欲に目がくらんでも、めちゃくちゃな要求をしてきても、その人を責めて責めても残るのは、自分も同じことをしているということ。したことについては良くない。それについては、弁解の余地はありません。でも、その後のとのさまがえるの姿は哀れです。この作品における強者と弱者の転換は、ダイナミクスを持って私たちに問いかけてきます。極端だけど、心情に問いかけるもの。
かえるの世界は僕たちの世界そのもの。許すか許さないかは人による。しかし、「絶対に許せないことを許す」。デリダの脱構築に通ずるものがあるかなと思います。そうやって、新たな地平を目指していくヒントがこの作品にはある。