詩の不可解で心地よい教材観
現在、現代文の授業で詩を教材として扱っています。教科書には様々な文章が掲載されていますが、高校現代文では主に評論と小説を用います。これは大学入試への対応という側面が大きいです。
採録された全ての教材を3年間で負えるのは、時間数的に不可能です。また、3年生になると演習も増えますので、どうしても教材を選定して指導することになります。その中で詩は扱いにくいものであると思います。
大学入試の側面から言うと、ここ数十年の間、ほとんど問題として出題されることはありませんでした。その理由は、自由度が高すぎて(筆者の主観が強く表れ過ぎている)、客観性を求めるのが難しいためです。しかし、センター試験に代わる大学入試共通テストでは、この詩の解釈を問う問題が出題されるようです。
現場の先生方は、この対応に追われていると思います。今一度、詩の教材としての価値を見出さなければいけません。求められているものは、「一見主観に満ちている詩から、客観性を見出す」力ですね。
今回、高校1年生で、中原中也「サーカス」、吉野弘「I was born」を用いた実践を行っています。まず、客観性という点で詩の形式(言語・韻律・内容)と、技法(リフレイン・比喩・連用中止法etc)を学び、その後、実際の詩に当てはめて主観を解釈していく形で進めていきました。注意点は、まず客観性。大学入試への対応は高校で必須です。
発展として、好きな詩、主に歌詞を用いて解釈を作成し発表、共有するという活動を行っています。身近にあるものを一般化して、思考を言語化する。この作業によって、理解力と表現力と養いたい。その際に、一番生徒が興味を持って取り組めるものは、「音楽」だと考えました。いまや、手軽に持ち運べるようになった音楽。CDを買わずとも、動画サイトやサブスクで聴きたい曲を時と場所を選ばずに聴くことが出来るようになった。
僕にとってもそうですが、生徒たちにとっても音楽は生活の一部になりつつあり、自ら選び取る自分らしさ、アーティストや友達との繋がりを生みだすツールなのです。
例として、自分自身も2つの曲の解釈に取り組みました。フジファブリック「若者のすべて」、official髭男dism「コーヒーとシロップ」。
音楽は、言葉+音楽、そしてMVによる映像の相互作用によって印象を私たちに植えつけます。その中でも、言葉に注目して、意味を考えさせました。解釈を読んで曲を聴くと、印象が変わります。言葉の力というものを感じ、自ら誰かに伝える。その作業によって、主観と客観の相互作用が起こる。
発表は来週です。とても楽しみでなりません。