「ちがう人間ですよ」という考え
第一学習社の教科書に、長谷川龍生の「ちがう人間ですよ」という詩が採録されています。恐らく高校の時に目にしたのですが、なんか心に引っかかっていて、何年か前に教材として取り上げることにしました。以下引用です。
ちがう人間ですよ 長谷川龍生
ぼくがあなたと
親しく話をしているとき
ぼく自身は あなた自身と
まったく ちがう人間ですよと
始めから終りまで
主張しているのです
あなたがぼくを理解したとき
あなたがぼくを確認し
あなたと ぼくが相互に
大きく重なりながら離れようとしているのです
言語というものは
まったく ちがう人間ですよと
始めから終りまで
主張しあっているのです
同じ言語を話しても
ちがう人間だということを
忘れたばっかりに恐怖がおこるのです
ぼくは 隣人とは
決して 目的はちがうのです
同じ居住地に籍を置いていても
人間がちがうのですよと
言語は主張しているのです
どうして 共同墓地の平和を求めるのですか
言語は おうむがえしの思想ではなく
言語の背後にあるちがいを認めることです
ぼくはあなたと
ときどき話をしていますが
べつな 人間で在ることを主張しているのです
それが判れば
殺意は おこらないのです
自分の思いを誰かに分かってもらうのは、実はとても難しいことです。正論や常識という枠があって、私たちの社会はそれなりに上手くいっています。ある程度の制約があって、社会生活を送ることが出来ているわけです。アナーキー(無秩序)な世界ではないのは、人間の理性がなせる業でとても素晴らしいことです。
しかし、意見の違いは間違いなく存在します。枠に当てはめても、次元や地平が異なるために、平行線に終わることがたくさんあります。単純な場面では、友達との考えの違い。食べたい昼ごはんが違う事もあるし、欲しいものが違うこともある。僕は古着が好きですが、人が着たものは買わないって人もいる。僕は小説を好んで読みますが、マンガしか読まないって人もいる。
趣味だけでなくて、もっと実用的だったり根源的な部分でもこの違いはあります。仕事のやり方や恋愛、全く知らない人はもちろん、良く遊んでいる友達や血がつながった家族まで、異なる意見にぶつかります。国語でも、「見知らぬ他者」という言葉を使うことがあるように、自分以外の人間は異なる自我を持った存在です。そこに共感するということは、実はすごいことなのではないか。
「なんで人とは違うのか」「なんで認めてもらえないのか」悩む人がいます。しかし、根本を問えばそれは当たり前。どんなに頑張ってみても、自分は他人にはなれないし、他人の意見を分かることは出来ない。
「わかるよ」って簡単に言われるのが嫌いです。だって、どうあがいても一緒の人間にはなれないんだから。同時に、自分自身でさえ自分の事を全て分かっているとは思えないのです。
「なんで、こんなことで悩むんだろう」「自分が何をしたいのか」って考えるように、自分自身でも全てを把握することなんてできません。日々変わる自分という存在があるだけ。それに向き合うだけで精一杯になるときもある。
だから、他者との違いが生じたときにイライラしても時間がもったいないと感じてしまいます。正論や常識に当てはめて考えて、是非を問うことは必要です。それで僕らの社会が成り立っているからね。でも考えの違いについては元々理解し合えないもの。だからこそ、長谷川さんが言うように、「ちがいを確認する・認める」のがしっくりくる。「共感する」でのはなく。そのちがいを認めてはじめて、相手を別の存在として捉えた上で関係が築かれていくんではないか。