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手編みのセーター

私が人生の舵を切ったのは22歳。
それまで生きてきた方向と全く違う方向に進んだ。

はっきり言えばお金のためだ。
安定した生活のため。
父の事業不振で不安定になった経済状況を、立て直すために舵を切った。
もしあのまま舵を切る必要がなければ、私はあのままクリエイターとして生きていったに違いない。

あれから40年。
経験は年齢と引き換えだ。

私はこの間、挫折も、絶望も、涙が出ないほどの悲しみも経験した。
一方で魂が震えるほどの喜びも、命よりも大事な存在も得た。
それらの経験を経て今、またクリエイターに戻ることになった。
クリエイターの世界にどっぷりハマり、
その世界の人たちと交流をしていると、
どこか懐かしく、心が温かくなる。

着心地が良くて手放せなかった古いセーターを、もう一度引っ張り出して着ている感じだ。

セーターを編み始めたのは、学生時代に住んでいた女子寮でやっていたからだ。元来のハマり体質を発揮し、毎日毎晩一生懸命編んだ。彼氏用に一枚編み上げ、その後自分用に一枚編んだ。
元彼となったその人は、セーターを取っていてくれたが、10年程前にこの世を去った。今はそのセーターがどうなっているのかは、わからない。
だが、私は自分のために編んだセーターを、ずっと捨てられずにいた。

そのセーターはグレーのアラン編みを取り入れた、私にしては大作だった。
クローゼットの中で見つけても、決して捨てないけど、着ることもなかった。

それなのに少し前に、40年ぶりに着てみたのだ。
ほんの出来心だった。

そのセーターは学生にしては高い編み糸で、ウール100%で、しっかりと目が詰まって編んでいるため、本当に暖かく、全くほつれもない状態に、感動さえした。

そのセーターを着ると、20代の自分が戻ってきたように感じた。
本当は進みたかった世界とは違う世界にいる私を、元の世界へ引き戻してくれたかのように感じた。

あのセーターは、いつか戻ってくる私を迎えるために、クローゼットや引き出しの中で待ち続けてくれていたのかもしれない。

人生は長い航海だ。
その瞬間は、悲しく絶望に陥っても、やがて笑いながら幸せを感じられるようにもなる。幸せだけが続くことを人は願うが、悲しみも、絶望も、人生のアクセントとして用意されているのが人生なのかもしれない。

やがて全ては帳尻が合っていくのだろう。
全てはシナリオ通りのような気がしている。

人生の途中で迷っても悩んでも、どちらの道を選んでも、全てはシナリオ通りなのだ。それにようやく気づいたのは、40年ぶりにセーターを着て、還暦を過ぎたことと無縁ではないだろう。

それが「還暦」ということなのかもしれない。
まさに「暦が還ったように感じている。


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通りすがりのnoter Hiromi
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