忘れられない父の生き方
昨日、この方の記事のタイトルを見てすぐに父を思い出した。
有料記事なので全てを読んではいないのだけど、タイトルだけでなんとなく言わんとしていることがわかったのは、父が生前行ったこととおそらく同じではないか、と思ったからだ。
2年半前に亡くなった父と、家族4人水入らずで話したことがあった。
父が亡くなる10年ほど前のことだろうか。私と妹が実家にひとりで行ったので、子供の頃同様に父、母、妹、私の4人で他愛もない話をしていた。
その時ふと「努力」についての話になった。
私が幼い頃から、父は努力が嫌い。母は努力すれば叶う、という真逆の考え方を持っていることは知っていた。私は父の性格に似ていたものの、母からの上手な刷り込みによって、「努力する人」になり、実際にそれで叶ったことも多かった。
一方妹は、努力が嫌いでこの点は父に似ていたのだろうと思う。それでも直感で生き、私とは違うが彼女が思うし淡汗を手に入れている。
その時も父は、自分が努力嫌いなのを、癌として譲らなかった。
今までも何度も聞いてきたことだったが、その時は珍しく詳しく理由を説明したので、私たちは「またか」と思いながらも、なぜか鮮明に記憶している。
・努力しなくていい
・努力する人は、努力するようになっている
・うまくいかなくて努力しないといけないと思う人は、そう決まっているだけ
・努力が嫌いな人も、そうなっているだけ
・イチローのように努力の人と言われる人は、努力するように生まれてきているだけ
・人生は生まれた時から決まっている
・努力をしない人は、努力をしないように生まれてきている
・俺はあちらの世界とつながっている
・俺にはわかる
父の言葉を書いてみたが、これだけ見れば「ちょっとおかしい人」と思われるかもしれない。しかし、この時はまだ頭もしっかりしていたし、私たちにとっては、父が生涯父が言い続けてきたことだったので、不思議ではないが妙にこの日は私たちがどんなに反論意見を言っても、父は頑なに持論を展開した。なんで俺の言うことがわからんのか、と言わんばかりに。
その後母や妹と話をしても、「なんか不思議と自信持って言ってたよね」と、印象には残ったものの、いつもの父で「変わらないよね」という結論で終わっていた。その後コロナで、時代が変わり、人々の考え方や意識が変わり、その過程で父の言った事を度々思い出すようになっていた。
今の私も、「努力不要論」だ。
努力ではなく、自分がやりたい事ならば、夢中になるはず、という考えだ。嫌いなことや、いやいや努力する必要はない。趣味だと思えばいい。例えば歌が好きな人は、好きだから、もっと上手になりたいから毎日歌う練習をするけど、その練習方法も自分のやりたいようにやる。自分の体の声を聞いて、どこまでやるかを決める。趣味ならばそれでいいはずだし、そうしてどんどん上手になっていく人もいるだろう。
では、仕事はどうなのか。
仕事はお金をもらっている以上、やるべきことはやらないといけない。
しかし、職業選択の自由はある。選ぶ時に自分が好きな仕事、いつまでやっていても飽きない仕事を選べばいい。そんな仕事はないよ、という人は見つかるまで気楽にできる仕事をすればいい。好きな仕事があるのに、一歩が踏み出せない人は「明日死ぬかもしれない」と思ったら勇気が出るかもしれない。
一旦好きな仕事に就いたけど、やっぱり思っていたのと違うならば、また他の好きな仕事を見つければいい。実際にそんな人たちが増えたからこそ、企業での定着率が下がり、転職市場が活況なのだろう。
嫌で嫌で仕方がない仕事をしても耐えられる人はいいが、それは努力ではなく、忍耐だろう。
だから、努力なんて必要ないのだ。
実際私は今、「努力しない」と決めている。努力する性質なので、気づけば嫌なことも継続してしまう。心を空っぽにしてしまって、頭が命令することだけをやってしまう。これは結局無理を生み、我慢を強いる。我慢していることさえ気づかず疲弊していく事を、私はよく知っているからだ。
努力するのではなく、好きなことをやる。
自分に負担がない程度でやる。のめり込んでもいいが、体を壊せば元も子もない。
そうして一つの作品や実績を作っていくのだ、と今は思っている。
好き、という気持ちが変化したら、やめるという選択肢を常に持ちながら。
ずいぶん私の考え方も変わったな、と自分でも驚く。結局父の言う通りになってしまっていることに、さらに驚く。
スピリチュアルなんて言葉を父は全く知らなかったし、そんな本を読んでもいない。私はこの時父が言うことを聞いて、「なんて能天気な」「なんてふわふわなこと」と思っていたのだが、今思えばスピリチュアル的な要素が詰まっているように思える。
この時の父の言葉たちは、今の時代にぴったりで、まるで先取りしていたかのように思える。
ようやく父を理解する人が増えた時代がやってきたのに、父はもうこの世にいない。
「そう決まっとったんよ」
と、父は言いそうだが、亡くしてその価値に気づく。
あの時否定せず、もっと詳しく父に話を聞いていればよかった。
そう思い出させてくれるだけで、父は私の心の中に生き続けるのかもしれない。
父が亡くなる前に書いた「父」という記事には、父の人となりを、娘の目から書いています。この記事、書いていてよかったです。