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我慢・忍耐を捨てたら、楽に生きられるようになった


我慢、忍耐という文字が、今の私にはどこにもない。
生活も、仕事も、人付き合いも、「嫌だな」と思ったら、サッと遠ざかる。

先日も、ある人間関係で面倒なことが起きたが、それも「どう思われてもいいや」というつもりで、やるべきことをし、言うべきことを言ったことで、解決した。
解決した、と思っているのは私だけかもしれないが、相手の気持ちを100%理解することも、考え方もわからないので、自分を守ることを第一に行動した。
今の私にとっては、「我慢しないこと」が何より大事で、最悪ここから去ることも、この関係を断ち切ることも想定している。

また、以前は大変なことがあっても、「その大変なことが去るのを待つ」すなわち、「忍耐」をしていたな、と今思う。

さすがに、息子が亡くなった時は茫然自失となり、何も考えられなかった時期が相当長かったが、人は動き回ることで深い心の傷を癒すしかないのだと今は知っている。
「気を紛らわす」こと。すなわち、卓球やボウリングをしながら泣くことはできないだろうし、真剣に仕事をしている時に泣けないのを、うまく利用したのだと思う。

それ以外にも、現状を変えることがなかなか難しい時に、(そう思っていただけなのだが)じっと相手や状況が変化するのを待って、「忍耐」していたが、できることがあるならさっさとやって、忍耐の時間を少しでも減らすことが、今はできるようになった。

今の世の中、変えようと思えば変えられないものは、実はあまり多くない。
生まれた環境や、名前、性別、住む場所、仕事、人間関係、考え方、価値観。これらすべては実は変えることができる時代だ。
と言うことは、自分が望む方向に変えることができ、我慢や忍耐をしなくてもいい時代に私たちは生きていると言うことだ。
もちろん、変えるためには時間がかかるものもある。しかし、それは自分が望んだ方向に変えるのであればむしろ嬉しいことであり、変わった後はまさに望み通りの人生になる可能性がある。

経験上注意点があるとしたら、「我慢していることにさえ、気づいていないことがある」と言うことだ。
私は、何人かの人との付き合いにおいて、時折違和感を感じながらも、「気にしすぎだ」と違和感を無視していたことがある。それは「長い付き合いだから」「そんな悪い人ではないから」という、何も根拠もない理由で自分を納得させていた。

しかし、ある日「事件」が起きた。
「想像よりも悪いことが起きた瞬間」があった。
そこで始めて自分が我慢していたことに気づき、その人間関係を手放すことにしたのだ。

我慢耐性、と私は呼んでいるが、どこまでも我慢ができる人がいる。
おそらく昭和の私はそのうちの一人だ。我慢や忍耐が当たり前だった時代に育っているので、自分ではなかなか気づかない。しかし、これらの「事件」勃発後、私は我慢をやめる決意をし、その際に「自分が我慢しているかどうか」を知る手掛かりを見つけた。

それは、「キューッと胸が痛む」かどうかだ。

その人と会うことを考えたり、その嫌なことをしないといけないと思った時に、胸がキューっとしたら、それは我慢しているサイン。
ああ、我慢してると思ったら、さーっと離れることを考えるようにしている。

きっと相手もそうして私から離れているのだろうと思うが、それはそれでいい。
本当に大事な人やものは、決して私の手元からなくなることはない。
そして、その手元に残ったものはすべて自分に我慢や忍耐を強要するものではない。

もし、あなたが「胸がキューッと」するようなものや人があれば、何でも変えることができる時代に生まれた特権として、我慢と忍耐を手放してみてはどうだろうか。

今の私のように、毎日ルンルン楽しく生きていけるようになるかもしれない。
その時大事なことは、「自分がワクワクするような方向に変えること」

ルンルン
ワクワク
ウキウキ

カタカナ4文字には、楽しくなる言葉が多いな、と、この記事を書きながら気づいた。もしかすると、これらカタカナ4文字が、私たちが幸せに生きられる大事な感情なのかもしれない。難しいことは考えず、ウキウキ、ワクワクする方向に進むだけ。そうすれば、ルンルンな日々が待っているよ、ということなのかもしれない。


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通りすがりのnoter Hiromi
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