見出し画像

自由に生きられない理由


ここ最近「自由に生きる」というワードが、度々浮かんでくるし、なぜかそんなテーマで話をすることが、なぜか多い。
私自身はかなり今、自由に生きていると思っているが、私の周囲の人たちは決して
そうではない人たちがいる。

ある時親戚の家に行った際に、昭和初期生まれの伯母と話をしていて気がついた。
私はずっと彼女は今まで幸せだと思っていた。しかし、よくよく話を聞いていると実はもっと自由に生きたかったという話が出てきた。
今は伯父も見送り、自由な時を過ごしていて、「今が一番幸せかもしれない」とふと漏らしたことがきっかけだった。

では、なぜもっと自由に生きられなかったのか。
色々と話を聞いていると、わかったことがある。

1 周囲の人と自分を比べて、自分はまだまだだから自由になんて生きてはいけない、と思っていた。
2 誰からも言われたわけではないのだが、どこかで自分がちゃんとしなければ、と思っていた。
3 夫の世話が第一優先だと思っていた。

つまり、「人との比較」「思い込み」「誰かの犠牲」のせいで、自由に生きることができなかったのだ。
もちろん、全て本人が納得していて、好きでやっていたことならば何も問題はない。
ただ、この時代の変化を大なり小なり感じているようだったが、変化することへの怖さがあるようでもあった。
だから、もし変わりたいと思うなら「少しづつ変化していけばいい」と伝えた。
伯母は、「やってみる」と言っていた。
人は幾つになってもこの時代に生きている以上、時代の変化に応じて少しづつ変化していこうとするものなのだとわかったし、それは素晴らしいことだ。伯母には少しづつ変化して、さらに幸せだ、と思ってほしいと願っている。

もう一つのアドバイスは、「自分はすごい」「自分はよくやった」と紙に書いて貼っておこう、というものだ。さすがにこれは、伯母は「そこまでしなくてもいい」と言ったので実現はしていないが、自分でやってきたことを当たり前だと思い、誰からも評価されず、自分でも評価していないのは、この年代の人に多い傾向だ。いや、この年代だけでもないかもしれない。
でも、伯父のために生き、伯父を見送っただけでも立派なことだったと私は思うし、だからこそ私は心から誉めた。

世間なんて案外誰も褒めてくれないのだから、自分のことは自分で褒めていい。
90歳を過ぎて、誰にも迷惑をかけず、一人でちゃんと生きているだけでも十分に立派なのだから、今度会ったらそれもちゃんと伝えておこうと思っている。
それにしても、人はやはり自由に生きたいものなのだ、と実感中だ。


いいなと思ったら応援しよう!

Hiromi.U
サポートありがとうございます!いただいたサポートは、次の良い記事を書くために使わせていただきます!